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鎌倉時代中期の公卿 ウィキペディアから
四辻 実藤(よつつじ さねふじ、旧字体:四辻 實藤󠄁)は、鎌倉時代中期の公卿。太政大臣・西園寺公経の四男。官位は正二位・権大納言。藪内と号す。
以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
嘉禎2年(1236年)2月30日侍従に任ぜられる。同年7月20日、従五位上に陞叙。嘉禎3年(1237年)1月5日、正五位下に陞叙[2]。同月29日、左少将に任ぜられる。嘉禎4年(1238年)1月22日、左中将に転任し相模権介を兼ねる。同年2月11日、従四位下に陞叙。4月18日、従四位上に陞叙。11月16日、正四位下に陞叙。
延応元年(1239年)1月5日、従三位に叙される。仁治元年(1240年)、正三位に陞叙か。但馬権守を兼ねるか。仁治2年(1241年)6月7日、従二位に陞叙。同年10月13日、権中納言に任ぜられる。仁治3年(1242年)8月9日、中宮権大夫を兼ねる。同年3月19日、帯剣を許される。寛元元年(1243年)8月7日、中宮権大夫を辞す。同月10日、春宮権大夫を兼ねる[3]。同年10月25日、左衛門督を兼ねる。寛元2年(1244年)8月29日、父公経の喪に服す。同年11月25日、復任。12月8日、春宮権大夫を辞す。建長2年(1250年)4月9日、検非違使別当に補される。同年5月17日、中納言に転正。検非違使別当は元の如し。同年10月14日、正二位に陞叙[4]。建長3年(1251年)1月22日、権大納言に転任。正元元年(1259年)11月25日、権大納言を辞す。
文永3年(1266年)、配流される[5]が、6月19日には召還される。永仁6年(1298年)8月22日、出家。同年10月13日、薨去。享年72。
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