瓜州県瓜州の名は『漢書』「地理志」に見られ、「古の瓜州の地は美しき瓜が生う」と記載されている。唐朝は瓜州をここの地名として正式使用した。清朝康熙末年のツェワンラブタンの叛乱平定後、瓜州は安西衛と改称された。 1913年(民国2年)に安西衛は安西県と改称された。
西涼21年3月に北涼の太祖武宣王(沮渠蒙遜)の攻撃を受けて敦煌が陥落して自殺し、西涼は完全に滅亡した。 なお唐王朝の皇室李氏は彼の子孫を称していたため、唐朝で成立した『晋書』では諱を避けて“李玄盛”と記される。ある説では、李暠の子孫が北魏に滅ぼされると、特別な計らいで西涼李氏は北魏の庇護を受けて、以降も
邢台市。596年(開皇16年)、洺州と趙州の一部を分割して邢州が立てられた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、邢州は襄国郡と改称された。唐朝が成立すると邢州に改められたが、742年(天宝元年)に鉅鹿郡と、758年(乾元元年)に邢州と改称された。 1119年(宣和元年)、宋朝は邢州を信徳府
夏州ると、その地に統万鎮を置かれた。487年(太和11年)、統万鎮が夏州と改められた。夏州は化政郡・闡熙郡・金明郡・代名郡の4郡9県を管轄した。 北魏の末年、夏州は宇文泰の根拠地とされた。 隋初には、夏州は2郡5県を管轄した。583年(開皇3年)、金明郡が延州に移管された。隋が郡制を廃すると、夏州の属郡
隴州隴州(ろうしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から民国初年にかけて、現在の陝西省宝鶏市と甘粛省平涼市にまたがる地域に設置された。 北魏の末年に汧城県に設置された東秦州を前身とする。554年(廃帝3年)、西魏により東秦州は隴州と改められた。 607年(大業3年)、隋により隴州は廃止されて岐州