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日本の潜水艦 ウィキペディアから
呂号第六十一潜水艦(ろごうだいろくじゅういちせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂六十型潜水艦(L4型)の2番艦。竣工時の艦名は第七十二潜水艦。
8月28日、偵察機がアトカ島東部のナザン湾に敵軽巡洋艦1隻、駆逐艦1隻を発見したと報じられた[6]。これを受けて基地潜水部隊にもその攻撃が命じられ、「呂号第六十一潜水艦」は28日にキスカ湾を出撃[7]。29日、「呂号第六十一潜水艦」など3隻の潜水艦はアトカ島監視配備を命じられ、加えて「呂号第六十一潜水艦」は湾内での敵攻撃を命じられた[8]。31日の日没後、「呂号第六十一潜水艦」はナザン湾に侵入[8]。米小型水上機母艦「カスコ」を撃破した[4]。「呂号第六十一潜水艦」はノーザンプトン型らしき巡洋艦に対して魚雷2本を発射し、爆発音を一つ聴取したと報告している[9]。湾から脱出し、上記の報告を行った後、「呂号第六十一潜水艦」は消息を絶った[9]。
9月1日、アトカ島ノース岬南東沖で米駆逐艦「リード」の爆雷攻撃を受けて浮上。砲戦後に戦没。乗員59名の内、17名が脱出。その内5名を「リード」は収容して去った[2][4][10]。9月1日、ソロモン方面アトカ島ナザン湾付近で亡失と認定[10]。
※『艦長たちの軍艦史』462-463頁による。階級は就任時のもの。
前記のとおり、アトカ島で撃沈された際に脱出した乗組員5人を米軍は収容したが、彼らは捕虜としてカリフォルニア州にあった日本軍捕虜尋問施設「トレイシー」に収容されたことが戦後確認されている[36]。その後、1943年2月に彼らはウィスコンシン州の別の捕虜収容施設に移されるが、そのうちの牧野一則上等兵曹は結核を発症したという理由で(本艦以外の他の捕虜2人とともに)1944年5月にコロラド州デンバーの陸軍病院に再度移送される[37]。収容先の陸軍病院で牧野上等兵曹は他の2人とともに抵抗を試み、1944年8月に切腹を図り(未遂)、10月29日に看守にモップの柄で実力行使に及んで全員が警備兵に射殺された[38]。射殺された捕虜は当初デンバーに葬られ、のちにカンザス州の陸軍墓地に改葬、墓碑も建立された[39]。牧野らが死亡したことは日本の情報当局も当時把握していたが、遺族には伝えられることがなく、戦後18年が経過した1963年になって、生還した本艦搭乗の元捕虜のもとに「留学した自衛官からの情報」として厚生省援護局から問い合わせが入って墓の存在が初めて明るみに出た[39]。元捕虜の粘り強い働きかけ(山崎拓の助力を得ている)によって、牧野上等兵曹らの遺骨が日本に返還されたのは、死去から42年が経過した1986年のことである[40]。
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