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1805-1859, 江戸時代後期の本草学者。通称は平九郎、諱は高憲。尾張藩士。『虫譜』『蜻蛉譜』 ウィキペディアから
吉田 雀巣庵(よしだ じゃくそうあん)は、江戸時代後期の本草学者。通称は平九郎、諱は高憲。尾張藩士。本草学結社嘗百社の一員として動植物の収集、写生に取り組み、特に昆虫類の図画をまとめた『虫譜』は高く評価されている。月琴、古物にも造詣が深かった。
文化2年(1805年)、尾張藩士吉田平九郎の子として生まれた[1]。吉田家当主は代々平九郎を名乗り、住所は尾張国名古屋広井三蔵、禄は100石であった[1]。
母ゑいは文化10年(1813年)3月3日死去、父平九郎も文政6年(1823年)10月死去し、12月4日家督を相続した[1]。当初馬廻組に所属したが、文政7年(1824年)2月29日寄合組に転じ、文政13年(1830年)7月11日平九郎を襲名した[1]。
文政頃、水谷豊文、石黒済庵、伊藤瑞三、大窪太兵衛、大河内存真等が定期的に開いていた本草会に大窪昌章、伊藤圭介、神谷三園等と加わり、その頃嘗百社と命名された[2]。木曽、駒ヶ岳、白山等に動植物を採集し、社中では「平九さん」と親しまれたという[1]。飯沼慾斎は晩年著書を編述中、不審点がある度に家を訪れ、いつも謝礼として美濃紙を贈っていたという[1]。
月琴を嗜んだほか、古物の収集にも熱を入れており、細野要斎、岡田文園、小寺玉晁、小田切春江、野口梅居等による同好会に参加し[1]、天保3年(1837年)から没年まで毎年1月25日自宅で博物会を催し、古い器物、瓦、貨幣、藩札等を展示した[3]。安政2年(1855年)4月14日には御下屋敷脇広場で甲冑出張調を行っている[1]。
当初子ができず、一時門人小塩五郎を養子としたが、その後実子角鞠が誕生した[1]。
安政6年(1859年)8月24日コレラにて死去[1]。家督相続の都合で、藩には27日没として届け出た[1]。万延元年(1860年)3月25日、追薦のため七ツ寺で博物会が開催された[3]。
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