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十劍大神流とは山邊春正(やまべはるまさ)が明治時代に開いた柔術、居合、剣術、薙刀、棒を含む総合武術の流派である。
男型と女型の二種があり、女型を十剣大神流女式という。
遠祖を常陸坊海尊としている。流祖は、武蔵国の山邊春正(乾尊軒)である。山邊の父祖は徳川家軍学の師の末裔であるとされる[1]。
山邊の母は八重垣流薙刀を伝えた家系であり、家に伝わる古文書の中に源九郎より海尊に誓言した「兵法入門書竝兵法巻物」等を発見しこれによって鞍馬の流系であることを覚った。弱冠にして秩父の山中で修業、工夫して奥妙に達し十劍山神流(じっけんやまがみりゅう)を創始した。後に流名を十劍大神流に改名した[1]。諸国を遍歴周遊の後、演武場を開き十剣大神流を教授した。その後道場を大井元芝に移し武術の研究と門下生の指導を行った。
男型と女型の二種類があり、陸軍士官学校柔道教官だった際にフランス人と同法を試みて一種の工夫を案出し女型の柔道を発明した。これを十剣大神流女式という[2]。
十劍というのは双手の十指をなぞらえた名称である[3]。
何らかの武術を修得した後に開いたと考えられるが、元になった流派は明らかにされていない。
『乗りものト運動4』に掲載された記事によると道場は東京都大井町元芝町825番地の小さい西洋館の中にあり、部屋は五間真四角の形で正面に天照皇大神宮と天皇を祭り木瓜桐の紋入の幕が張ってあったとされる[4]。1922年時点で山邊春正は56歳であった[注釈 1]。山邊春正は剣術柔術以外に薙刀、槍、棒なども修得していた。山邊の先祖は常陸坊海尊であり、父は彰義隊に所属していた。山邊の父は上野戦争で敗れた後、中野の母のもとへ潜んでいた。この時、官軍に踏み込まれたので母が咄嗟に懐剣で二人殺し父を逃したという。三歳の時から大井町に移住し各所に奉公していたが十七歳の時に神隠しにあい三か月目に大井町鮫洲に帰った。これから何となく山が恋しくなり、それから武術修行に心変わりし木曽の裏山、埼玉の武庫山などに入り30歳まで一人で修行したと述懐している[注釈 2]。
山邊春正は1923年(大正12年)に亡くなった。その後の活動は不明であるが、綿谷雪が編纂した『武芸流派大事典』には、山邊春正→伊藤芳太郎→伊藤博一という伝系が記載されている。
山邊春正の門人にフランソワーというフランス人がいた。フランソワーは明治初年に造船創設の技師として招聘され、後に陸軍士官学校教官となった人物である。フランソワーは明治22年に山邊の門人となった。フランソワーはフランス武官に武術の精妙を説いており、これに動かされてフランス公使やフランス大使なども山邊の門下に加わった。その評判はフランス軍人に伝わり日本に来る者は柔術を修めて帰国の土産としていたとされる。
1906年5月(明治39年)フランス極東艦隊の横浜入港の際にモントカルム号艦長のマリーと司令官リッシャンがフランソワーを介して山邊春正の柔術の見学とフランス水兵との試合を申し入れてきた。1906年5月5日に山邊春正は承諾して高弟の金子正光と小峰明十を随伴して横浜に出張しモントカルム艦でボクサーと対抗試合してこれを破った。さらに一人の水兵が死に物狂いとなり抜刀して切り込んできたのを身を躱して防ぎ止めたことにより900の艦員の膽を挫いたとされる。技量に驚嘆した艦長は山邊に向かい随行の両人いずれでも師範役として雇い入れたいと交渉し、小峰明十が推薦されてモントカルム鑑に乗り込み5月14日に横浜を出港した。
小峰はフランス極東艦隊が中国航海途上の五か月間に十剣大神流の教授を行い1906年11月に帰国した。
1906年(明治39年)イギリスのコンノートが来日した際に十剣大神流を台覧に供した。2月23日、イギリス大使館において夜会余興で山邊春正一門の武術試合が行われた[2]。
山邊春正と女式師範の野口歌子が陸軍士官学校教官フランソワー、英国大使館附武官バーシング夫人、英国伯爵夫人コロレド他外国婦人に武術教授をしていた関係から御前試合の機会を得た。
剣法
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