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南漢の初代皇帝の父 ウィキペディアから
劉 知謙(りゅう ちけん、生年不詳 - 乾寧元年(894年)11月)は、唐の封州刺史。十国南漢の初代皇帝劉龑の父。字は徳光。遠祖はアラブ系という説もある[1][2]。
『旧五代史』『冊府元亀』『新五代史』『十国春秋』などは名を劉謙としており、『十国紀年』は「劉謙望、字は徳光、またの名を知謙、後に名を止めて謙とする」と記している。『南漢国史』の編者である陳欣は、これについて「彼の実名は劉知謙であり、劉謙というのは後世の史家が後漢の高祖劉知遠の名を憚ったものである」と考証している。しかし、劉謙の孫娘の清遠公主の墓誌には「祖は謙と言い、字は内光である」と記載された。930年、清遠公主は亡くなった時に、後漢はまだ建てられない。
青年時代は広州の牙将であった[3]が、嶺南東道節度使の韋宙に見出され、その姪の韋氏を娶った[4]。乾符5年(878年)に黄巣が広州に侵攻して嶺南の治安が乱れると、たびたび群盗を討伐して功績を挙げた。それにより中和3年(883年)に封州刺史・賀江鎮遏使に任じられ、梧州・桂州以西を管轄した。劉知謙は兵士と財を蓄え、数年後には精兵1万人と戦艦100余艘を得たとされる[3]。
乾寧元年(894年)11月に死去した。『南漢書』によれば、劉知謙は病床に息子たちを集め、「いま、五嶺(広東・広西)ではいたるところで盗賊が決起している。我には精鋭の兵士と武器がある。汝らは努めて功を建てよ。時機を逃してはならぬ」と言い残したという。南漢成立後に聖武皇帝の諡号[3]、代祖の廟号をもって追尊された。
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