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劉子房(りゅう しぼう、孝建3年(456年)- 泰始2年10月1日(466年10月25日))は、南朝宋の皇族。松滋侯。孝武帝劉駿の六男。字は孝良。
孝武帝と何淑儀のあいだの子として生まれた。大明4年(460年)1月、尋陽王に封じられた。冠軍将軍・淮南宣城二郡太守に任じられた。大明5年(461年)9月、南豫州刺史・淮南郡太守に転じた。大明6年(462年)、宣城郡太守を兼ねた。大明7年(463年)、右将軍の号を受けた。永光元年(465年)1月、東揚州刺史に転じた。同年(景和元年)、東揚州刺史から退き、都督会稽東陽新安臨海永嘉五郡諸軍事・会稽郡太守となった。
同年(泰始元年)12月、明帝が即位すると、子房は督から都督に改められ、安東将軍の号を受けた。泰始2年(466年)1月、撫軍将軍・太常に任じられたが、長史の孔覬が命を拒否し、晋安王劉子勛に呼応して挙兵した。劉子勛が帝を称すると、子房は車騎将軍・開府儀同三司の位を受けた。3月、明帝の派遣した巴陵王劉休若らの東征軍に敗れ、孔覬は上虞県令の王晏に殺害された。子房も捕らえられ、建康に送られ、松滋県侯に降封された。10月、永嘉王劉子仁・始安王劉子真らとともに殺害された。
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