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前漢11代 ウィキペディアから
民間にあった時期の劉病已(後の宣帝)と許平君(平恩侯許広漢の娘)の長男として生まれた。
地節3年(前67年)に立太子されたが、外戚の霍氏一族は権勢維持のため霍皇后が生んだ子を皇太子として後継に立てることを目論みこれに反発、劉奭の暗殺を企てるが失敗した。この皇太子暗殺未遂事件と許平君暗殺事件は、後に宣帝が霍氏一族を粛清する一因となった。
劉奭が亡き愛妾の司馬良娣をしのんで嘆き悲しんだり、儒教に傾倒するなどあまりに理想主義で叙情的な性格から、父の宣帝は「わが家を乱すのは太子ならんか」としてその統治能力に疑問を持ち、加えて後嗣が生まれないことを理由に皇太子の廃位を検討、丞相の黄覇に劉奭に代わって次男の淮陽王劉欽を太子とすることを諮問した。
しかし、劉奭が糟糠の妻であり霍氏一族に謀殺され悲劇の最期を遂げた許皇后の忘れ形見であるという宣帝の思いや、生母の従弟である中常侍許嘉(許延寿の子)と継母の王皇后の工作により、王政君との間に生まれた劉驁(後の成帝)の誕生を理由に廃太子には至らなかった。
黄龍元年(前49年)に即位すると、現実的な法家主義者だった宣帝と異なり、儒教を重視した政策を実施した。皇太子時代の学師であった蕭望之ら儒者を登用したが、前46年に宣帝の代から側近として重用されていた宦官である弘恭、石顕と対立し失脚した。以後、元帝の治世は宦官により専断されることとなった。
匈奴が統一されて西方の脅威が除かれると、元帝は内政に目を向けるようになった。厳しい刑法を改正するなどの政策を採用し、民衆の生活の安定を図ろうと試みた。
また、財政の健全化を図って税を軽減した他、大規模な宴会を禁止、狩猟用の別荘や御料地の経費を抑え、宗廟など祭祀にかかる経費を削減した一方、儒教に傾倒するあまりに現実離れした理想論に基づく政策も実施され、専売制を廃止したために財政を悪化させて国政を混乱させ、財政問題を根本的に解決するに至らなかった。
そのため宣帝により中興された国勢は再び衰え、元帝の皇后王氏一族から出た王莽の簒奪の要因を作り出した。後漢の史家班彪はその治世を「優柔不断にして宣の業衰えぬ」(「宣」とは宣帝のこと)と評している。
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