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江戸時代前期から中期の大名。近江大溝藩4代藩主。分部家5代。従五位下・若狭守、隼人正。池田長信の三男 ウィキペディアから
分部 信政(わけべ のぶまさ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。近江国大溝藩4代藩主。分部家5代。官位は従五位下・若狭守、隼人正。
承応元年(1653年)12月14日[1]、旗本・池田長信の三男として誕生[2][3]。長信は備中松山藩初代藩主・池田長幸の三男にあたる[4]。
寛文7年(1667年)、16歳の時に、縁戚関係にあった大溝藩主分部嘉高の末期養子に迎えられる[2]。嘉高の母は池田長常(長信の兄)の娘であり、すなわち嘉高の母と信政は従姉弟という関係にあたる。8月25日に遺領相続が認められる[2]。9月5日に徳川家綱に御目見し、広光の脇差を献上した[2]。12月28日、従五位下隼人正に叙任[2]。
寛文9年(1669年)には領内が洪水による被害を受け、9月に幕府から3000石の米を貸し与えられた[2]。寛文10年(1670年)4月22日、初めて領地入りのための暇を与えられる[2]。
延宝4年(1676年)には再度水害を蒙り、10月に参勤交代の延期を願い出て許された[2]。元禄2年(1689年)4月26日、戸田直武(元大目付・勘定奉行[5])を預けられる[2][注釈 1]。元禄8年(1695年)、越前国丸岡藩の本多重益が改易されると、3月28日に命令を受けて丸岡城守衛を務めた[2]。元禄15年(1702年)11月10日、若狭守に遷任[2]。宝永7年(1710年)には加藤助之進を預けられた[2][注釈 2]
正徳4年(1714年)6月23日、三男・光忠に家督を譲って隠居し[2]。同年12月18日[2]、大溝において死去[2]。享年63[2]。
特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[2]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
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