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平安時代にあった御所 ウィキペディアから
冷泉院(れいぜいいん)は、平安時代の天皇の累代の後院(ごいん、譲位後の御所)の1つ。
大内裏の東に隣接し、左京二条二坊、大宮大路の東・二条大路の北4町を占めた(現在の二条城の北東部分に該当)。多くの殿舎を備えた寝殿造であったという。
弘仁年間頃に離宮として成立、816年(弘仁7年)嵯峨天皇が行幸したことが記録上の初見である。天皇は譲位後ここを後院として、834年(承和元年)まで居住した。嵯峨上皇没後はその皇后橘嘉智子の御所となる。子の仁明天皇はたびたび行幸し、内裏修復の間はここを御所とした。次代の文徳天皇も居住。その後は陽成上皇が後院として活用し、917年(延喜17年)の冬に京中の井泉が枯渇した際には、上皇は東北の門を開き庶人に池水を汲ませている(『日本紀略』延喜17年12月19日条)。のちに村上天皇が仮御所とした他、冷泉上皇が後院とし、後冷泉天皇の里内裏にもなった。
始めの名称は「冷然院」であったが、火災による焼失と再建を繰り返したことから「然」の字が「燃」に通じ不吉であるとされて、954年(天暦8年)の再建の際に「冷泉院」に改称した。
天喜3年(1055年)に殿舎を取り壊して一条院へ移築、以後の消息はよく判っていない。
近年[1]、敷地跡である二条城内の発掘により、かつての冷泉院の庭園遺構が見つかっている。2016年(平成28年)には出土品352点が「平安京左京二条二坊「冷然(泉)院」出土品」として京都市指定有形文化財に指定された[2]。
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