Loading AI tools
日本の陸軍軍人 ウィキペディアから
内山 英太郎(うちやま えいたろう、1887年(明治20年)12月16日[1][2] - 1973年(昭和48年)12月25日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
内山小二郎陸軍大将の長男として生まれ、父の兄・内山定吾の養嗣子となる[1]。仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業[1][3]。同年12月、砲兵少尉に任官し、野戦砲兵第1連隊付となる[1][3]。陸軍野戦砲兵射撃学校教官、同校教導大隊付などを経て、1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業[1][4]。
野戦砲兵第1連隊中隊長、野戦砲兵射撃学校教官、砲兵監部員などを歴任し、1927年(昭和2年)9月に教育総監部付となり1930年(昭和5年)5月までフランスに私費留学をした[1]。帰国後、砲兵監部員となり、1933年(昭和8年)8月、砲兵大佐に昇進し野戦砲兵第1連隊長に就任[1][4]。陸軍野戦砲兵学校教官、陸軍省整備局整備課長などを経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進級し野戦砲兵学校幹事となる[1][2][4]。
野戦重砲兵第5旅団長、関東軍砲兵司令官を歴任し、1939年(昭和14年)10月、陸軍中将に進んだ[1][2][4]。翌年9月に第13師団長に親補され、中国に出征した[1][2][4]。その後、第3軍司令官、第12軍司令官を経て、1945年(昭和20年)4月に第15方面軍司令官に発令され、大阪で本土決戦に備えていたが終戦を迎えた[1][2][4]。
1945年10月、第2復員軍司令官に就任し[2]、同年12月に予備役に編入となったが召集され、1946年(昭和21年)6月まで中部復員監を務めた[1]。1946年7月、戦犯容疑により逮捕された[1]。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[5]。1949年(昭和24年)1月に重労働40年の判決をうけ巣鴨プリズンで服役したが、1958年(昭和33年)4月に仮釈放となった[1]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.