室町幕府公方とした。だが成氏も享徳の乱を起こして、古河御所に逃れて古河公方を名乗り、さらに上杉氏は山内上杉家と扇谷上杉家に分裂したため、応仁の乱が始まる前に関東地方は騒乱状態となる。 幕府も手をこまねいていたわけではなく、8代将軍足利義政の庶兄足利政知を関東に派遣する(堀越公方)。だが、堀越公方
戦国時代 (日本)古河公方は当時の関東においては上位権力であり、覇権を確立するためには古河公方の威光は必要不可欠であった。そのため宇都宮成綱(足利高基を擁立)、北条氏康(足利義氏を擁立)、上杉謙信(足利藤氏を擁立)は古河公方の擁立を行った。しかし、戦国時代後期になると関東諸大名の古河公方への求心力は衰え、上位権力は形骸化している。
戦国大名離宮八幡宮 祇園社(現 八坂神社) 多武峰 宇佐神宮などの神社 朝廷 室町幕府(足利氏) 篠川公方 稲村公方 古河公方(足利氏) 小弓公方 鎌倉公方 堀越公方(足利氏) 越中公方 堺公方 平島公方(阿波公方) 徳川氏 - 現当主 : 徳川家広 肥前有馬氏 - 現当主:有馬匡澄 相馬氏 - 現当主:相馬行胤
山内上杉家正平18年/貞治2年(1363年)に足利尊氏の次男基氏が鎌倉に下向して鎌倉公方(関東公方)となると、憲顕は関東公方の執事(後の関東管領)となり、公方を補佐して関東の政務を取り仕切った。憲顕は観応の擾乱の際に足利直義方についたために上野・越後守護の地位を奪われて
永正の乱宗の裏切りによって討たれた事件(般若野の戦い)がある。 越後の内乱による関東管領上杉顕定の予期せぬ戦死が山内上杉家の内紛の端緒であり、その対応で古河公方足利政氏父子の意見が割れた事が内紛再燃の原因となった。更に越後の内乱終結後の長尾為景の国内引締めの一環として神保氏討伐が位置づけられているため、これ