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1821-1906, 清末の考証学者 ウィキペディアから
兪 樾(ゆ えつ、拼音: 、1821年12月25日(道光30年12月2日) - 1907年2月5日(光緒32年12月23日))は、中国清代末期の学者・文人。字は「蔭甫」、号は「曲園」、堂号は「春在堂」。
1821年、浙江省湖州府徳清県に生まれる。祖父は兪廷鑣。父は兪鴻漸。兄は兪林。
1850年、進士となる。この時試験官を務めた曽国藩は、兪樾の詩の「花落春仍在、天時尚艶陽」という一節を賞賛した。それを受けて、兪樾は後に「春在堂」を自身の堂号にした。
合格後、官僚として翰林院編修・国史館協修を務め、その博識を咸豊帝から賞賛されたことから、1855年には河南学政の地位についた。しかし、出題した試験の題について弾劾を受けたため辞職。以降、友人の李鴻章らの援助のもと在野で過ごした[1]。
1875年、友人の援助で蘇州の荒れ地を買い取り、湾曲した地形を自ら設計して庭園を造った。庭園名を『老子道徳経』の一節「曲則全」から取って「曲園」と名付け、自らを「曲園居士」と号した。
学風は戴震・王念孫・王引之の皖派考証学を継ぐ。特に、清末の諸子学の中心人物として知られる[4]。1870年の著書『諸子平議』は、刊行後まもなく明治期の日本でも読まれた[5]。孫詒譲の『墨子間詁』(『墨子』の著名な注釈書)には序を寄せている。
兪樾は日本の漢学にも関心を寄せていた。例えば、1866年には荻生徂徠の『論語徴』を読んでいる[5]。
1877年には、日本から訪ねてきた漢学者の竹添井井と歓談した[6]。その時のやりとりが『春在堂随筆』にまとめられており、「『管子纂詁』の著者安井息軒を知っているか」などの質問を竹添にしている[注釈 1]。1905年には、竹添の弟子の島田翰とも歓談した[注釈 2]。その他、山本渓愚らとも交流した。
1883年には、日本漢詩選『東瀛詩選』を岸田吟香と北方心泉の依頼をきっかけに刊行し[10][11]、山梨稲川・白川琴水・広瀬旭荘らの詩を顕彰した。
狩野直喜や倉石武四郎が伝える所では、1906年春、小柳司気太が哲学会の機関誌『哲学雑誌』に「兪樾の哲学」という旨の論文を載せたところ、それを知った兪樾は「私は"哲学者"だったのか」という内容の詩を『春在堂詩編』にしたためて応え、明治日本で作られた「中国哲学」という新奇な学問分野に対し、当事者の立場から反応を示したという[12][13][14][15]。
兪樾は書家としても知られる。1906年秋、蘇州の名刹寒山寺所在の、張継作・文徴明刻『楓橋夜泊』詩碑の修復に携わっており、その拓本が広く流通している[16]。
兪樾は小説家としても知られる。1889年には『七俠五義』を刊行した。随筆の『右台仙館筆記』では、日本を含む各地の奇譚を集録している[17]。
500巻余に及ぶ膨大な著作を残した[18]。大概は全集の『春在堂全書』に収録されている[18]。
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