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大日本帝国陸軍軍人 ウィキペディアから
佐藤 新平(さとう しんぺい)は岩手県気仙郡住田町出身の大日本帝国陸軍軍人、操縦士。
陸軍特別攻撃隊第79振武隊員である。
佐藤新平は佐藤亀治・トメの次男として生まれ、岩手県気仙郡住田町で育つ。兄の文吾は大日本鉱業に勤め、弟の新平は軍人だった父親の影響を受けて同じ軍隊の道に進む。岩手の高等小学校時代には卒業するまで首席であったが、途中山形中学受験に失敗、東京神田の写真館に住み込み、その後仙台地方航空機乗員養成所に応募し入所(7期)[1]。熊谷陸軍飛行学校館林集成教育隊を経て1944年末より桶川分教場[2]に転任する。
特別攻撃隊に志願し、昭和20年3月27日に山田信義少尉以下12名に特攻命令が出る。4月5日、新平ら第79振武隊は九九式高等練習機で出撃し各務原、小月を経て知覧へと向かった。 命日は昭和20年4月16日。享年23歳。
3月27日より新平が桶川を出たとされる4月5日まで約30ページにわたって記録された日記(遺書)である
[4]。最終的に遺書が書き込まれている。
1ページ目には「軍人勅諭」がかかれ、2ページ目より3月27日付の日記が始まる。
思えば、大空に志し、翼の生活に入り、早六歳、昨年より特別攻撃隊の熱望三度にして漸く希望入れらる。
神我を見捨て給わず。六歳に亘り、練り、鍛へし腕に十二分の自身あり。
唯、健康に十分注意なし、轟沈の訓練に励まんのみ。
父上、母上様も御喜び下さい。
軍人としての修養は只立派な死に場所を得るに有ります。
最后まで操縦桿を握って死ねる有難い死場所得る事が出来、新平幸福感で一杯です。
亡き兄もきっと喜んで呉れる事でせう。これから轟沈の日まで日誌を続けます。
遺書とて別に書きません。
死生有命 不足論
男児従容 散大空」
3月30日頃より、友人知人に挨拶の為か、外出している様子がうかがえる。
ピストも任務が任務なので非常に活気あり。十六時半、会食の為、川越市に行く。
隊長以下十二名、和気藹々お互いに胸襟を開き合い、愉快な一夕を送る。」
この後、荷物(遺品)を送る、父母への感謝の言葉、壮行会の事、遺書等の手記があり、辞世の句で結ばれている。
4月5日の12時出陣とあり、留魂録が終わっている。
新平ら12名は同日夕方に各務原に到着、翌6日朝に小月に向かい、同じように7日朝に知覧に向かった[5]。以降9日間、知覧での動向は不明ながら、公式記録の戦死日である昭和20年4月16日には沖縄に出撃したとされる。
御両親様
辞世
身はたとへ敵艦船と砕くとも
七度生きむあかきこころは
ありがたき御代にうまれてやくだてる
そのよろこびにわれはゆくなり
御両親様へ
うみやまに まさるめぐみに むくいなむ
道をゆくなり いさみいさんで
亡き兄さん江
極楽の 兄弟酒を 偲びつつ
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