伊藤長弘
安土桃山時代の武将 ウィキペディアから
略歴
豊臣秀吉の鉄砲大将を務め[3][4]、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍し、天正18年(1590年)の小田原征伐では銃士200人を率いた[4]。
文禄元年(1592年)の文禄の役では御弓鉄砲衆として銃士250人を率いて肥前国名護屋城に駐屯した[4][5]。
文禄4年(1595年)正月、秀吉の草津湯治では河井九兵衛と共に山宿の警護役を務めた[3][4]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、伏見城の戦いに参加した[3][4]。以後の消息は不明。
また、同じく豊臣秀吉に仕えた伊藤長俊と同一人物とする説があり、関ヶ原の戦いの後は流浪の身となったが、年来懇意にしていた福島正則に匿われ、1、2年後に病死したという[1][注 1]。
注釈
- ただし、『戦国人名辞典』では長弘と長俊を別人として記載している。
脚注
参考文献
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