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伊佐 一男(いさ かずお、1891年(明治24年)3月19日[1][2] - 1985年(昭和60年)7月1日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
東京府出身[1][2][3]。伊佐貢の長男として生まれる[1]。仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第35連隊付となる[1][4]。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した[1][2][3]。
1922年(大正11年)2月、歩兵第35連隊中隊長に就任[1]。以後、陸大教官、陸軍兵器本廠付(陸軍省調査班)、歩兵第9連隊大隊長、近衛歩兵第4連隊付(第一高等学校配属将校)、東京警備参謀などを務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進し陸士付となる[1][3]。
1936年(昭和11年)8月、金沢連隊区司令官に就任[1][3]。1937年(昭和12年)8月、歩兵第7連隊長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に昇進し歩兵第3旅団長に就任した[1][2][3]。1940年(昭和15年)3月、西部防衛参謀長に転じ、1941年(昭和16年)3月、第66独立歩兵団長に異動し、同年8月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。1942年(昭和17年)12月、留守第56師団長に就任[1][2][3]。1944年(昭和19年)4月、第86師団長に転じて志布志湾沿岸の守備を担当し、本土決戦に備えた[1][2][3]。1945年(昭和20年)5月、西部軍司令部付となり[2][2][3]、同年8月、鹿児島連隊区司令官に転じ、同年10月18日に西部軍管区司令部附となり[5]、同年12月に予備役に編入された[1]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。
墓所は多磨霊園。
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