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今北 洪川(いまきた こうせん、文化13年7月10日(1816年8月3日) - 明治25年(1892年)1月16日)は、幕末・明治時代を代表する臨済宗の禅僧。幼名は真三郎、法諱は宗温、道号は虚舟、室号は蒼龍窟。摂津国西成郡福島村(現・大阪府大阪市福島区)の生まれ[1]。
明治8年(1875年)、教部省に召致され、鎌倉円覚寺の管長に出世し、雲水のみならず、一般大衆に対する禅指導に力を注ぎ、山岡鉄舟や鳥尾得庵ら明治期の著名人が参禅した。弟子としては、渡米して禅の宣揚につとめた釈宗演や鈴木大拙らのほか、沢柳政太郎、鈴木馬左也、北条時敬、土屋元作らがいる[2]。
今北洪川が設立主宰した両忘会が標榜した在家主義は、釈宗演門下の釈宗活の宗教法人両忘禅協会、釈宗活門下の立田英山の人間禅教団へと受け継がれた。
摂津国西成郡福島村(現・大阪市福島区)で今北善蔵の三男として生まれる。藤沢東畡に儒学を、廣瀨旭莊に詩文を学び、大坂中島(中之洲)に私塾を開くが、『禅門宝訓』を読んだことが機縁となり出家を決意する。妻・淺子と離縁し、天保11年(1840年)25歳で相国寺の大拙承演に師事し出家する。僧堂で一緒だった荻野独園に励まされ、苦しみながらも参禅を続けた[3]。天保13年(1842年)4月に大悟し、大拙に認められる。のち弘化4年(1847年)、曹源寺の儀山善来和尚のもとに参じた。安政2年(1855年)、大拙示寂。安政5年(1858年)より岩国の永興寺に住して寺を復興するとともに、廃仏思想への対抗として儒仏の一致調和を説き、さらにキリスト教を邪教として厳しく排斥している。岩国藩主・吉川経幹のために文久3年(1862年)、『禅海一瀾』を著した[1]。明治8年(1875年)、拠点を東京府本郷の麟祥院に移す。同年、鎌倉円覚寺住職となる。明治11年(1878年)、儀山示寂。明治16年(1883年)、京都妙心寺の越渓守謙より釈宗演を徒弟として譲り受ける。明治25年(1892年)示寂。
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