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仇台(きゅうだい、クド、朝鮮語: 구태、生没年不詳[1])は、中国史料『北史』『隋書』に登場する百済の始祖。『三国史記』雑志・祭祀条は、「百済は、始祖である仇台廟を都城に建て、春夏秋冬毎年四回祭祀する」と伝えている[1][2]。『隋書』によると、遼東太守・公孫度の宗女(公孫度の娘とも妹とも)を娶っている[3][4]。
百済を「クダラ」という日本語は明らかではないが、仇台は「クド」とよむ[2]。「クドラ」の「ラ」は日本語で親愛を現わす後置詞であるから、「クドラ」すなわち仇台の子孫、または仇台の民という意味で「クドラ」といった。それが日本語の「クダラ」という理由かと考えられる[2]。
『北史』『隋書』には、百済の祖先は高句麗から出た。東明の後に仇台という慈悲深い人があらわれ、はじめ国を帯方郡の故地に建てたが、後漢の遼東太守の公孫度が娘を嫁がせ、東夷の強国となり、百家とともに海を渡ったのに因んで「百済」と号した、と記している[2]。
百濟之先,出自高麗國。其國王有一侍婢,忽懷孕,王欲殺之。婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王捨之。後遂生一男,棄之廁溷,久而不死,以為神,命養之,名曰東明。及長,高麗王忌之,東明懼,逃至淹水,夫餘人共奉之。東明之後,有仇台者,篤於仁信,始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之,漸以昌盛,為東夷強國。初以百家濟海,因號百濟。歷十餘代,代臣中國,前史載之詳矣。開皇初,其王餘昌遣使貢方物,拜昌為上開府、帶方郡公、百濟王。 — 隋書、巻八十一
『周書』は、「百済の祖先は恐らく馬韓の属国であり、夫余の別種である。仇台というものがあって、帯方郡の地に国を興した」とあり、風俗を記して「毎年四回、始祖である仇台の廟を祭る」と記している。
百濟者,其先蓋馬韓之屬國,夫餘之別種。有仇台者,始國於帶方。故其地界東極新羅,北接高句麗,西南俱限大海。東西四百五十里,南北九百餘里。治固麻城。其外更有五方:中方曰古沙城,東方曰得安城,南方曰久知下城,西方曰刀先城,北方曰熊津城。…其王以四仲之月,祭天及五帝之神。又每歲四祠其始祖仇台之廟。 — 周書、巻四十九
中国史料『北史』『隋書』『梁書』『冊府元亀』は百済の始祖を仇台と記録している。仇台は同時代の夫余王・尉仇台と類似した人名であるため、仇台と尉仇台の関連性を指摘する見解がある[5]。
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