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人身攻撃(じんしんこうげき、ラテン語: ad hominem、argumentum ad hominem)は、ある論証や事実の主張に対して、その主張自体に具体的に反論するのではなく、主張した人の個性や信念を攻撃すること、またそのような論法[1]。論点をすりかえる作用をもたらす。人格攻撃論法ともいわれる[1]。論理性や合理性を持って判断するクリティカル・シンキングにおける論理的な誤りである誤謬のひとつ[1]。
対人論証 (ad hominem abusive) と呼ばれるものは、提案者の信用を失わせる目的で個人攻撃を行う場合を指す。また状況対人論証 (ad hominem circumstantial) と呼ばれるものは、提案者の置かれている状況について攻撃するもの、お前だって論法(ad hominem tu quoque)と呼ばれるものは、論証の提案者自身がその論証で非難されているような行動や振る舞いをしていると攻撃するものである。
人身攻撃は、論理的には論証の前提の真偽はそれを述べている人とは独立しているので、演繹的には妥当ではない。しかし、人身攻撃は三段論法的に述べられることは滅多になく、その評価は非形式論理の領域と証拠の理論で行われるべきものである[2]。証拠の信頼性は、目撃証言や専門家の証言などにおける証人の信頼性の評価に大きく依存する。例えば、目撃者が嘘をつく動機を持っているから信頼できないとか、専門家が実際にはその分野について深い知識を有さないといった反論は、法廷では大きな役割を果たすことがある。
人身攻撃は、権威に訴える論証の逆である。権威に訴える論証では、論証者の権威、知識、地位などがその論証の真偽の基礎となる。人身攻撃は逆に、論証者が主張する権威/知識/地位を持っていないことを攻撃したり、論証者が過去に同様な誤りを犯したことに注目させる。しかし、それが無謬の反論とはならない。
人身攻撃が誤謬である場合、次のような基本的形式を持つ。
例えば、次のような例がある。
人身攻撃は、論理学や批判的思考でよく取り上げられる誤謬である(ナチスと優生学の例は正しいように思えるかもしれないが、「ジョージ・ワシントンは奴隷を所有していた」「ワシントンは偉大な人物だ」「よって奴隷制度は正しい」という主張と論理的に同一のものである)。この誤謬やそれに基づいた告発は、実際の会話でよく見られる。人間の脳がパターンを認識する性質のため、修辞学の技法としては強力である。逆に主張を行う人のポジティブな面に基づいた論証を権威に訴える論証と呼ぶ。
議論において、最初の前提は「事実の主張」と呼ばれ、議論の軸となることが多い。論点は「推論上の主張」と呼ばれ、何らかの推論過程で表される。推論上の主張には、明示的なものと暗黙的なものがある。前提を全て真と見なしたとしても、それによって結論が真であることを保証できないため、この誤謬の推論形式は妥当ではない。これには、具体的に述べられていない前提に基づいた論証でも同じである。
例えば、次のような形式である。
ここで明示的に述べられていない前提「A が主張することはいつも間違っている」が追加されている。この一文が真であるなら、この論証は妥当となる。しかし、人身攻撃では具体的に述べられない前提は偽であることが多く、単に誤謬を補強しているに過ぎない。たとえば、
という例における「偉大なワシントンが行ったことはすべて正しい」という明示的に述べられていない前提は、明らかに偽である。
人身攻撃の誤謬は、論証自体の健全性に対して反論するのではなく、その論証を行った人の信頼性や権威を問題とすることで、論証自体が間違っているとか、その人がそのような論証をすることが間違いであると主張するものである。それによって、相手の主張やその個人の論証能力に疑いを向けさせる。理性的な会話の中で単に相手を侮辱することは、(褒められたことではないが)必ずしも人身攻撃を構成しない。人身攻撃の目的は、議論の相手をおとしめ、その主張を第三者が割り引いて考えるように仕向けることである。一般には、人身攻撃と単純な個人攻撃や誹謗中傷は必ずしも区別されない。しかし、論理学や修辞学では「人身攻撃」という言葉はこれまで述べたような意味を持っている[3]。
例:
このような文は、犯罪者は嘘をつくことが多く、嘘をつくことで互いにかばい合うという常識に照らして、一般には納得されるだろう。しかし、これが個人の証言の信頼性を貶める人身攻撃であるとすれば、妥当ではない。
一般に、人身攻撃はある主張を否定することはできても、その逆が真であることは主張できない。
例:
前提が正しければ、ポーラの証言は価値を失うが、審判が正しい判定をしたかどうかとは無関係である。
対人論証は、一般に論敵を侮蔑するものだが、同時に表面上は相手の個性の欠点やその主張と相手の行動の乖離を事実として指摘する形式をとる。侮辱行為と相手の個性の欠点は(事実であったとしても)その主張の論理的な長所とは無関係なので、この戦術は論理的には虚偽である。この戦術は、政治家が優勢なライバルに選挙で勝つために、有権者の感情に訴えるプロパガンダの手段としてよく利用される。
例:
状況対人論証とは、ある主張をした人物が、そのような主張をせざるを得ないような状況にあることを指摘するものである。基本的にその人物に関する偏見を植え付ける攻撃である。演繹的論理においてこれが誤謬とされるのは、相手の立場を指摘してその主張を論理的にも信頼できないように思わせたとしても、主張自体の論理性には何ら関係ないためである。これは、発生論の誤謬(出典を理由に主張が正しくないとする論証)とも重複する。
一方で、ある立場の人物が権威や個人的観測に基づいて主張を納得させようとした場合、当人の立場の性質によっては、その根拠の証拠としての能力はゼロにまで減らさせることもある[4]。
例:
お前だって論法(ブーメラン論法ともいう)では、ある人物がその主張と矛盾した言動をしていると指摘し、自身の言動を正当化するものである。特に、AさんがBさんの言動を非難したとき、「お前だって論法」で対応する場合、Bが「Aも同じことをしている」と返す様を指す。つまりAのダブルスタンダードを指摘することになるが、その時の命題の真偽には関係しない。Whataboutismの一種である。
連座の誤謬も場合によっては、人身攻撃の誤謬の一種とされる。論調の類似性から、ある個人を何らかの属性に当てはめる場合である。
この形式の論証は次のようになる。
例「貧富の差が我慢できないと言うが、共産主義者もそう言っている。だから、お前は共産主義者だ」
次のような形式もある。
例「貧富の差が我慢できないと言うが、共産主義者もそう言っているし、奴らは革命を信じている。だから、お前も革命を信じているんだろう」
この変形として、相手の翻意を促す修辞技法がある。
例「貧富の差が我慢できないとおっしゃいましたね。本気ですか? 共産主義者と同じことを言ってますよ。あなたは共産主義者じゃないでしょう?」
連座の誤謬と対人論証を組み合わせる技法もある。
例「貧富の差が我慢できないと言いますが、共産主義者もそう言いますから、あなたは共産主義者です。共産主義者は嫌われ者で、彼らの言うことはいつも嘘です。だから、あなたが言うこともいつも嘘です」
ストローマン(藁人形論法)は、相手の考え・意見・人格などの一部のみ拡大するなど、歪めたり変造して示したり、事実を捏造して、その変造・妄想された人格や物事(藁人形)に対し指摘・反論を行うという誤った論法であり、しばしば、相手に罪悪感を与えて活動を牽制したり、誹謗中傷の冤罪を齎すために使用される。
例「この部屋に鍵をかけないのは防犯上良くない、大事なものを紛失しうるというなら、あなたは鍵がかかっていなければ泥棒するのですね。」
例「この部屋に鍵をかけないのは防犯上良くない、大事なものを紛失しうるというというなら、ここにいる人たちの中に泥棒がいると言うことですね。侮辱的だ」
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