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二笑亭(にしょうてい)は、東京深川の地主渡辺金蔵(1877年?~1942年6月20日)が自ら設計し大工を指揮して建築させた個人住宅(渡辺邸)で、現在の門前仲町二丁目にあった。
関東大震災後の1925-1926年、渡辺は世界一周旅行に出かけた。帰国後、(関東大震災後の)区画整理が終るとバラック建ての自邸を本建築に改築する工事を始めた。着工は1927年12月頃で、自分で材木などを購入した渡辺は設計図もないまま口頭で大工に指示を出して建築させたが[1]、その指示がたびたび変わったために工事は何度も中断。1931年8月に新築(竣工)届が出されたが、その後も工事が続けられた。この間、渡辺の奇行に耐え切れなくなった家族は別居し、渡辺1人と女中のみが残っていた。その後、「電話返却事件」(後述)をきっかけに1936年4月24日に渡辺が加命堂脳病院に入院させられ、2年後の1938年4月頃に取り壊された。 なお金蔵は昭和17年6月20日に没し、深川の玉泉院に葬られた。
現在、二笑亭が建っていた場所にはインテリア店が建っている。
この建物は、閉鎖的で特異な外観を持ち、近所では「牢」「お化け屋敷」などと呼ばれていた。建物に興味を持った精神科医式場隆三郎は取壊し前に谷口吉郎と共に調査を行い、多数の写真を収録した「二笑亭綺譚」(1938年、二笑亭に関するほぼ唯一の資料)としてまとめた[1]。
式場によれば次のような数々の奇妙な特色を持っている。
自らも建築道楽家である水木しげるは、「東西奇ッ怪紳士録」の中で「二笑亭主人」と題してこの建築を扱っている。
藤森照信は二笑亭の建築をダダイスムのマヴォやポストモダン建築の石井和紘などと比較して論じている。さらに、全体構造のアシンメトリー化と、逆に本来アシンメトリーな部分をシンメトリーとしている(上記の狛犬など)点を指摘している。
式場隆三郎の子息である式場隆成が「定本 二笑亭綺譚」に寄稿した文章によると、渡辺金蔵は茶道(鎮信流)の造詣が深く、二笑亭の構成にも茶道趣味の影響が見られるという。
渡辺は1936年春、当時相当の資産価値を持っていた自宅の電話の無料返上を申し出た。当局はその理由の解釈に苦しんだが、結局申し出通りに電話を取り外し電話機を引き取った。このことがきっかけで別居していた家族は渡辺を入院させるのであるが、入院後に渡辺が語った理由は次の通りである。 「私は長いこと電話を所有してきたが、最近ではそれを使わない。しかも料金を納めねばならない。使用しないのに、料金を払うということは悪い。だから、電話を廃止することになった」
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