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陸奥国和賀郡二子村に所在した。城跡は北上川湾曲部西岸の丘陵地帯あり、二子という名は地内北西部に小山が二つ並んでいることによる。丘陵東側には宿(しゅく)と呼ばれる城下町が形成され、二子城の中心部分に城主の居館跡(白鳥館)が存在し、周辺には家臣団の屋敷が配置されていたとみられる。現在、市立公園飛勢城跡として整備されている[2]。
室町時代以降、和賀郡惣領職として郡内を治めた和賀氏の居城跡で、築城年代は不明であるが、和賀氏の本拠地ははじめ北上川の対岸の更木(北上市更木町)に本拠地があったとされる(1797年刊『邦内郷村志』)。
二子城が和賀氏の本城となるのは、応永8年(1401年)4月28日に和賀時義が和賀郡惣領職に補せられた[3]直後とする説もある。天正18年(1590年)の奥州仕置で和賀氏が所領没収、城地追放処分を受けると、二子城には浅野長政の家臣・後藤半七が駐留したが、旧領回復を目指す和賀氏・稗貫氏が旧臣を集めて挙兵(和賀・稗貫一揆)、二子城を奪還した。しかし翌年の再仕置で蒲生氏郷勢に攻略され、当主の和賀義忠は逃亡途中に殺害された。天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には、「二子 平城 破 信直抱 代官 川村左衛門四郎」とある。
慶長5年(1600年)、南部氏が最上出陣中、伊達氏の支援を受けた和賀忠親は再度旧領回復を目指して挙兵(岩崎一揆)し、忠親は二子城を拠点として南部氏と戦った。和賀勢は花巻城を急襲(花巻城の夜討ち)し、三の丸、二ノ丸を制圧して本丸に迫ったが、援軍を得た南部勢に敗れて二子城を放棄、和賀勢は拠点を岩崎城に移した。
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