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中都路
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析津府
1153年(貞元元年)、金により析津府は大興府と改称され、
中都
が置かれた。大興府は
中都路
に属し、大興・宛平・昌平・良郷・安次・永清・武清・香河・宝坻・漷陰の10県と広陽鎮を管轄した。 1284年(至元21年)、元により大興府は大
都路
総管府と改められた。大
都路
は
中
書省に属し、右警巡院・左警巡院と以下の10州22県を管轄した。
覇州
北宋のとき、覇州は河北東路に属し、文安・大城の2県を管轄した。 金のとき、覇州は
中都路
に属し、益津・文安・大城・信安の4県を管轄した。 元のとき、覇州は大
都路
に属し、益津・文安・大城・保定の4県を管轄した。 明のとき、覇州は順天府に属し、文安・大城・保定の3県を管轄した。
平州 (河北省)
中都路
に属し、盧龍・撫寧・海山・遷安・昌黎の5県を管轄した。 1215年、モンゴル帝国の史天倪が平州を奪い、金の経略使の乞住を降した。この地に興平府が置かれた。1300年(大徳4年)、元により興平府は永平路と改められた。永平路は
中
書省に属し、4県1州州領2県を管轄した。
易州
1125年(天会3年)、北宋の易州戍将の韓民毅が金に降った。金の易州は
中都路
に属し、易・淶水の2県を管轄した。 1239年、モンゴル帝国により易州は順天府に属した。1273年(至元10年)、元により易州は大
都路
に転属した。1286年(至元23年)、易州は保定路に転属した。易州は易・淶水・定興の3県を管轄した。
薊州
金のとき、薊州は
中都路
に属し、漁陽・遵化・豊潤・玉田・平峪の5県と石門・韓城の2鎮を管轄した。 元のとき、薊州は大
都路
に属し、漁陽・豊潤・玉田・遵化・平谷の5県を管轄した。 1368年(洪武元年)、明により大
都路
が北平府と改められ、薊州はそのまま北平府に属した。1