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中原 猶介(なかはら なおすけ、天保3年4月8日(1832年5月8日) – 慶応4年8月7日(1868年9月22日))は、日本の武士(薩摩藩士)、蘭学者・科学者・兵学者。名は尚勇[2]、号は鉄心斎[2]。通称は猶介[2]。
文献によっては「猶介」に「ゆうすけ」とルビを振っているものもあるが、他に「尚介」の表記も散見されるため、「なおすけ」の読みが正しいとみられる。
天保3年(1832年)4月8日、現在の鹿児島市上之園町(の一部、地番整理前は上荒田町に属した)生まれ。幼少より蘭学や舎密学(せいみがく)に熱中し、嘉永2年(1849年)から3年間、長崎へ出向く機会を得てオランダ人から蘭学を習得した[2]。1851年(嘉永4年)島津斉彬に見出され[3]、集成館事業や薩摩藩水軍増兵、軍艦建造、反射炉建設の職にあたり、近代海軍の礎を築いた[2]。また、薩英戦争に備えて日本初の機械水雷を開発したり、斉彬の命により薩摩切子の着色を研究し、紅色薩摩切子の製作に成功するなど、鹿児島県や日本の近代技術の面で大きな功績を残した[2]。この頃、江戸で学ぶように命じられ、安井息軒のもとで漢学を学んだり、杉田成卿について蘭学を学んだりした[3]。
斉彬の死後は江戸に再留学[2]。江川英龍のもとで学問を習得し、1862年(文久元年)塾頭に就任[3]、後進育成に当たった。息軒門下の頃、偶然に薩摩藩の蒸気軍艦が品川へ入港、息軒は猶介の案内にて艦内を一巡した。猶介は、その軍艦は自分が建造に携わったことを、師である息軒に一言も語らなかったが、息軒は後日その事実を知り、太息して猶介の人となりに膝を打ったという。
元治元年(1861年)軍賦役となり[2]、禁門の変において大砲隊長として活躍した[2]。慶応2年(1866年)の長州再征伐の際は、長崎にて長州藩の軍備品購入の斡旋をした。慶応2年(1866年)、イギリス公使の薩摩藩訪問時には接待役を務め、実弾演習を指揮し披露した[3]。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは一番砲隊長として出陣する[2]。同年3月に新政府側の海軍参謀に任命されたが、病のため一時帰郷。同年6月に再出征、7月の越後長岡城の戦いに加わり、河井継之助と対陣する。その戦いの最中、右足に銃創を負い、その傷が原因となって、柏崎病院で37年の生涯を閉じた[2]。
最期を迎えるに際しては、蘭学や科学に熱中し信仰していたにもかかわらず、天命と知るや、一切の医学的治療や投薬を退けたという。
鹿児島県立甲南高等学校南門に「中原猶介翁宅址碑」がある[3]。大正5年(1916年)、鹿児島市内有志によって建立され、碑文は島津長丸男爵によるもので、中原は同年12月28日には正五位を贈られた[4]。当初は現在の甲南高正門付近にあったが、1930年の甲南高の前身・鹿児島二中時代、校舎鉄筋改築の際に移築したもの。
「たとひ身は 越路の雪に 埋むとも 清き流れに 名をや流さん」とする文献もある。
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