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上野 忠親(うえの ただちか、貞享元年(1684年) - 宝暦5年5月9日(1755年6月18日)は、江戸時代中期の鳥取藩士。通称は小平太、幼名は小平次、または新九郎。
貞享元年(1684年)、山城国伏見の西尾氏の家に生まれる。池田光仲の側室・上野氏(後に厚恩院)の甥に当り、その縁で元禄7年(1694年)、鳥取に招かれ、厚恩院の養子となった。厚恩院の許で養育された忠親は元禄11年(1698年)~12年(1699年)にかけて学問を習うため、京都へ上った。宝永4年(1707年)3月、厚恩院の申し出により、300石が与えられ、正徳2年(1712年)8月、上野姓に改めた。享保7年(1722年)2月、厚恩院が没すると厚恩院に支給されていた300石を合わせて、600石が与えられ、上野氏の家督を継いだ。元文4年(1739年)2月、元文一揆が起こった際、寄合組に属していた忠親は、藩主・池田吉泰の命で農民の差し出した覚書の説明を行ったが、一揆に同情的との理由で同年4月、閉門を命じられた。『鳥取藩史』によれば閉門中は専ら、著述に励んでいたという。同年12月には閉門が免ぜられ、後に木鼡翁と名乗った。宝暦5年(1755年)5月9日、鳥取城下の茶町の屋敷にて病没、享年72。子の小平太が家督を継いだが、寛政年間に故有って家禄を減らされ、後に断絶した。
幼い頃より学問を好んだ忠親は多くの著書を残している。幅広い分野に精通し、知識が豊富であった忠親は異事・奇聞を探り、それを記した。後に岡嶋正義からはその功績を「後世史家我藩に旧説の伝はれる、大半斯人の賜なり」(『因府年表』)と称されている。また、武術にも精通しており、武術関係の著書も存在している。
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