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1942-, 版画家、画家、現代美術家 ウィキペディアから
1942年東京都杉並区に生まれる
小学校低学年より油彩をはじめ、中学、高等学校の頃は抽象画を描く。
東京都立工芸高等学校卒業後、東京写真専門学校へ通う。
画家・小野木学(叔父)の思想概念に影響を受けた傑出した異端な作家。
国画会展、モダンアート展へ抽象絵画を出品。
写真製版による捺染技術を知り、シルクスクリーン技法に興味を示す。
1960年代以後、美術界は写真の時代に入り、ベンヤミンの著書「複製技術時代の芸術」などに翻弄され
芸術はアウラを超え「写真」と「版画」の時代に変革していった。
そんな中で上矢津も油彩の抽象絵画から離れ、剥製や標本の写真をシルクスクリーンに転写、1970年「シリーズ博物詩」を制作。
内外で受賞を重ね評判を得るが、数年で概念的抽象絵画に戻っている。
版画の受賞歴は重いが版画家としてひとくくりは出来ない。
後年、東京芸術大学教授の中林忠良や野田哲也に招かれ、油絵科版画研究室の講師を4年間勤める(1990-1993)
1990年以後、「円記号」を描くようになりブランドマークとしてドローイングや写真の大型インクジェットプリントに使用する。
才が先んじて留まれないタイプ。病による休止が続き、近年に重い胸腺癌となったようだが手術で復活。
コンパスで絵を描くことに専念、特製の大きなコンパスでキャンバスに弧を引く。
父方の曽祖父・上矢儀右衛門(山梨県出身)は因州・鳥取藩の池田公の江戸上屋敷において記録方を勤め
明治初めの上野戦争(戊辰戦争)の一部を記録、池田公より角丸の紋と帯刀を受ける。(アトリエの周波体14より)
母方の小野木家は武家で豊臣秀吉公に奉仕、京都の福知山城の三代目城主・小野木重勝(歳政)(PC福知山城記録より)
エッセイに、小野木学をレクイエムした「ナヤミノタネ」(講談社)。
抽象的な画文集に「ねこもあるけば」(理論社)、「百年の蝉」(ポプラ社)などがある。
練馬美術館図録エッセイに「青いエーテル」、「余命を知った画家は何を描いたか」など。その他。
月刊短歌集「コスモス」に「アトリエの周波体」を3年ほど連載。
児童書の挿絵や絵本もあるが専門の絵本作家とは異なる。
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