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三農(さんのう)とは農村、農業、農民を指し、三農問題(さんのうもんだい)とは、中華人民共和国における農村、農業、農民の問題を特に示し、経済格差や流動人口等を包括した中国の社会問題となっている。
三農の概念は経済学者の温鉄軍博士が、1996年に提出した論文[1]が初出であり、その後、だんだんとメディアや官庁で広く使われるようになった。2000年、湖北省監利県棋盤郷党委員会書記である李昌平が朱鎔基総理に「農民は本当に苦しんでおり、農村は本当に困窮しており、農業は本当に危険である(農民真苦、農村真窮、農業真危険)。」といった内容の手紙を提出した[2]。その後、「三農」問題は広く使われるようになり、2001年には「三農」問題の文言は公文書に盛り込まれることで、大陸の理論界や政策を決定する階層の人間が用いる術語となり、2003年には中国共産党中央委員会において正式に「三農」問題を工作報告に書き入れられた[3]。
背景として都市と農村の収入格差が増大していることが挙げられる。中華人民共和国国家統計局によると、改革開放が始まった1978年における都市住民の一人当たり可処分所得は343元、農村の一人当たり純収入は134元で格差は2.55:1倍、1985年では都市住民の一人当たり賃金は690元、農村の一人当たり純収入は397元、双方の格差は1.74:1であったが、2005年には前者は10,493元なのに対し、後者は3,255元に過ぎず、その格差は都市:農村=3.22:1となり[4]、この20年で都市-農村間の収入格差が拡大した。
改革開放以来、農村では、人民公社から生産責任制へと移行し、農村産業化が進められた。同時に中国の農産品は外国の農業大国との競争に曝され、家族単位では市場競争に勝つことが出来ず、農民は「手元にある農産物を売りに出せない(手里有糧売不出)」現象が発生した。
1992年鄧小平の南巡講話以降、中国経済が成長し始めたが、中国経済の成長と比較して第一次産業は成長とは程遠く、第二次産業、第三次産業が成長した[5]。農民は農業で十分な収入は得られないと考え、農村から都市へ出稼ぎに出かけた。しかし、都市には農民に提供するほどの職業は十分には無く、都市に向かった多くの農民は都市内部に集住し、農民工となった。結果として、農村の生産性は下降した、さらに多くの農民が都市に職探しに来るようになる悪循環が続いた。農業の発展が中国経済の正常な発展に直接影響し、また、中国の総人口の約3/4が農村の人口であることから、農民の生活状況が中国全体の生活状況を最もよく表している。農村の発展は、中国共産党が提出した「三歩進む(三歩走)」戦略を実現する為の最大の挑戦であり、三農問題は当面の中国社会の顕著な問題たらしめている。
鄧小平の先富論に代表される都市と農村の発展の差を是認した政策により、都市と農村間の貧富の差を拡大させた。都市が経済発展する過程で、農民から土地を没収する動きも経済格差を激化させた。ひとたび仕事や土地を失った農民は流動人口となり、都市に出てきて生きようと考え、結果として、三農問題は都市にまで波及したのであった。この悪循環により、三農問題は中国全体にわたる社会問題になったのであった。
行政の力量が加わり、農業生産物の価格をコントロールし、新政策を採用することで農民の最低収入は保証された。都市にいる農民工への差別を解決するには、農民工への職場を要求に適合した割り振りをせねばならない。農村に対して産業化の調整が進められ、郷鎮企業を創業させることで農民の就業問題の解決を図ろうとしている。また、小城鎮化を推進することで農村の過剰労働力を都市で吸収しようと図っている。
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