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日本の江戸時代に、陸奥国に所在した藩 ウィキペディアから
戦国時代には田村氏が本拠を置いたが、豊臣秀吉の奥州平定(奥州仕置)時に改易され、蒲生氏郷の領域となる。その後、1595年に豊臣政権の城割で三春城は廃城になるが、上杉氏の支配を経て蒲生氏の支配が復活してしばらく経った1609年以降に再び用いられた[1]。1627年、蒲生氏に代わって伊予国松山から加藤嘉明が移封され会津に入ったとき、嘉明の次男・明利が3万石で三春に入った。同年、領民による新領主反対の一揆がおこっている。翌年、二本松から松下長綱が3万石で入る。
1644年に常陸国宍戸より秋田氏が5万5000石で入る。2代藩主秋田盛季の時に弟の秋田季久に5000石を分与したため、三春藩は5万石となる。以降廃藩置県までこの石高で秋田氏の支配が続く。江戸時代中、凶作や飢饉に繰り返し見舞われたため、藩財政は窮乏していた[2]。
戊辰戦争の際には他の東北諸藩同様に新政府側であったが、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵暗殺と会津・旧幕府軍による白河城攻略による白石会議が奥羽列藩同盟に変貌した為、これに加わる。官軍迅衝隊による棚倉城落城と、仙台藩の棚倉城防衛放棄ともとれる背信的行為、これに加え平潟の官軍の上陸により防衛が不可能と判断され、断金隊隊長の美正貫一郎の尽力や郷士河野広中の斡旋もあり無血降伏をする。これにより逆賊となることは回避され、藩内を兵災から守り、多くの人命が救われ、所領も安堵されて維新を迎えることが出来た。
なお、三春藩が「裏切った」といわれる淺川の戦闘で
とあるが、『二本松藩史』には
十六日丹羽、奥野、野崎の諸隊、仙台兵一個大隊、会津兵三個小隊と合して浅川の敵陣を攻めむ、先頭終日、東軍利あらず — 『二本松藩史』69頁
とあり前後が矛盾している。また、
七月十六日に至って同し近郷なる浅川という処へ、賊兵多く襲い来り、一挙に此処を攻破らんとせし事有り、此時浅川には土、彦の兵隊にて守りけるか、多くの賊兵寄ること均しく、大小砲を持って烈しく打立、 防戦さまさまに手術を尽くし時移るまで防ぐこといえども、今日の敵は大勢にして、また必死となって来たりし事なれば、その矛先は当り難く、既に危なくも見へし処へ、又此あたりなる釜之子に居し薩の兵具隊よりして、此砲声を聞つけ、何事の出来しやらんと馳著て来たりしか、今血戦の最中なるゆへ、直ちに敵のうしろの方より小銃を以って打ちければ、是にて敵は忽ち崩れ、討たるる者は数多く、皆散々に逃行けり、是より後は、此棚倉城の敗兵、再び此辺に足を留めず、皆々北方へ落行きしとなり — 『復古記』13巻57頁
と書かれており、通説の「裏切り」は史料の上では証明できない[4]。
廃藩置県後、旧三春藩領は三春県となり、平県、磐前県を経て、1876年に福島県に編入された[2]。
3万石。外様。
3万石。外様。
5万石。外様。
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