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三学士(さんがくし、サムハクサ(サマクサ)、삼학사)は、1637年の丙子の乱の際に、朝鮮(李氏朝鮮)が清に降伏することに反対し、斥和論(講和に反対する論)を主張して清国に捕えられ、残酷な死に至った斥和派の強硬論者三人、すなわち、洪翼漢、尹集、呉達済を総称する表現。
丙子の乱の際、彼らは清を蛮夷だとして、最後まで主戦論を主張した。彼らは、仁祖が三田洞でホンタイジに降参した後、斥和臣として捕えられ、瀋陽で処刑された[1]。 彼らの思想は、伝統的な朱子学の立場に立っており、忠君愛国の思想、明に対する慕華思想がその支えとなっていた。例えば、洪翼漢の『尊周彙編』には「列聖相承,世藩職修,事大一心(先祖代々から中華の藩屏として仕え、強大な主君に一意専心仕えるのみ)」とある[2]。
後に清の太宗となったホンタイジは、三学士の高節を称えて瀋陽に祠堂と石碑の建立を命じ、「三韓山斗」と揮毫したと伝えられた[3]。1932年に、「三韓山斗」の碑額が発見され、瀋陽の春日公園に三学士遺跡碑が復元された。
世界遺産となっている南漢山城には、三学士を祀った顕節祠が設けられている[1][4]。例年、旧暦9月10日に祭祀が行われている[4]。
この祠は、1671年に宋時烈が『三学士伝』を著して三学士の事績を顕彰したことなどを受けて、1681年に建設されたものである[5]。
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