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ロベルト・フランチェスコ・ロモロ・ベラルミーノ(Roberto Francesco Romolo Bellarmino、1542年10月4日、モンテプルチャーノ - 1621年9月17日、ローマ)は、イタリア出身のイエズス会司祭で、ローマ・カトリック教会の枢機卿。カトリック改革に最も功労のあった枢機卿の一人。1930年、聖人および教会博士に列せられた。
ロベルト・ベラルミーノ | |
---|---|
司教、証聖者、教会博士 | |
生誕 |
1542年10月4日 モンテプルチャーノ、イタリア |
死没 |
1621年9月17日 ローマ、イタリア |
崇敬する教派 | カトリック教会 |
列福日 | 1923年5月13日 |
列福場所 | ローマ |
列福決定者 | 教皇ピウス11世 |
列聖日 | 1930年6月29日 |
列聖場所 | ローマ |
列聖決定者 | 教皇ピウス11世 |
記念日 | 9月17日、5月13日(聖人暦、1932年 - 1962年) |
守護対象 | グレゴリアン大学、ベラミン大学(en:Bellarmine University)、フェアフィールド大学(en:Fairfield University)、ベラミン大学進学予備校(en:Bellarmine College Preparatory)、カノン法学者、カノン法法曹家、教理問答教師、教理問答受講者(en:Catechumen)、シンシナティ大司教管区(en:Roman Catholic Archdiocese of Cincinnati) |
ベラルミーノはシエーナ近郊の都市モンテプルチャーノに、貧窮した貴族ヴィンチェンツォ・ベラルミーノの息子として生まれた。母親のチンツィア・チェルヴィーニは、教皇マルケルス2世の姉妹だった。ベラルミーノは幼い頃から神童ぶりを発揮、ウェルギリウスを暗誦し、イタリア語やラテン語の詩を数多く書いた。ベラルミーノの書いたマグダラのマリアの賛歌は、聖務日課祈祷書(en:Breviary)に収められるほどであった。
父は息子に家運再興の夢を託し、政治家の道を歩ませようとしたが、母は息子をイエズス会に入れたいと考えており、ベラルミーノは母の意向に従った。1560年、ローマのイエズス会修練院に入ったベラルミーノは3年後の1563年にピエモンテ地方のモンドヴィにあったイエズス会修道院に移ってギリシア語を学んだ。
ベラルミーノの本格的な神学研究は1567年から1568年にかけて在籍したパドヴァ大学で始まった。彼は同大学でトマス・アクィナス神学(トミズム、en:Thomism)を学んだ。1569年にはベラルミーノは研究を完成させるためブリュッセル近郊のルーヴェンに送られ、同地のルーヴェン大学に学んだ。ここでベラルミーノはプロテスタントの教説についての徹底的な研究を行った。ベラルミーノはルーヴェンで叙階されてすぐに、教授および説教者として名声を博した。特に説教者としての高い評価は、カトリック、プロテスタントを問わずに遠方の地域にまで届くものとなった。
ベラルミーノは大学で教鞭をとった最初のイエズス会員でもあった。受け持った講座は「トマス・アクィナス神学大全」だった。彼は教父を初め、中世の神学者たちに関しても広く研究を行い、その成果は『教会の著作家たち』(De scriptoribus ecclesiasticis、1613年、ローマ)に結実した。同書は後にジャック・シルモン(en:Jacques Sirmond)、フィリップ・ラブ(en:Philippe Labbe)、カジミール・オーダン(en:Casimir Oudin)によって改訂された。
ベラルミーノのルーヴェン滞在は7年におよんだが、研究と修道生活のために健康を損なっていたため、1576年に(おそらく療養目的で)イタリアに帰国した。ところが、ローマに着いたベラルミーノに教皇グレゴリウス13世が、ローマ学院で開講されていた論争神学講座の担当を依頼した。ベラルミーノはこの職に就くことを名誉に思い、教皇の申し出を丁重に受け入れた。
ベラルミーノは論争神学講座を11年にわたって担当し、その研究から彼の主要著作である『異端反駁信仰論争』(Disputationes de controversiis christianae fidei、en:Disputationes)が生まれることになる。同書の初版は1581年から1593年にかけ、インゴルシュタットで出版された。ベラルミーノの『論争』は、同時期にチェーザレ・バロニオ(en:Caesar Baroniusが出版した『教会年代記』(en:Annales Ecclesiastici)が歴史分野に特化していたのと同様、教義分野に特化した著作だった。
この記念碑的著作は、当時カトリックとプロテスタントの間で行われていた様々な論争を体系的にまとめあげた最初のものであり、ヨーロッパ全域に計り知れないほどの影響を与えた。またドイツとイングランドのプロテスタントたちにも激しい打撃を与え、両国では大学に特別講座を設けてベラルミーノの著作に論駁を加える必要に迫られた。
キリスト教の教義論争に関して『論争』にとってかわるほどの著作はいまだに現れていないだけでなく、批判方法が発展した現在においても、いまだに『論争』の歴史的価値は損なわれていない。
カトリックの宗教的再生と学問的研鑽、この二つが1540年代以降カトリック教会が力を注いだことであった。どちらも同時代の特徴を持ち合わせている。どんな作品でもまず文体が洗練されていること(maraviglia)が、16世紀初頭にはもっとも重要だと見なされていたが、やがてあらゆる分野で知識を蓄積していくことこそが第一であるという考え方に変わっていった。このことが神学的著作にも影響を与えている。
『論争』は、第1巻では神の言葉、キリストおよび教皇について扱う。第2巻は公会議の権威、および三つの教会(戦う教会、期待する教会、勝利する教会)、第3巻は秘跡に関する問題を、第4巻は恩寵、自由意思、義化(en:Justification (theology))、「よきわざ」の問題をそれぞれ主題とする。
1589年までベラルミーノは神学教授職に忙殺されていたが、その後は教皇が代わるたびに新たな地位や役目を与えられることになった。フランス王アンリ3世の暗殺後、時の教皇シクストゥス5世はガエターノを教皇特使として派遣してカトリック同盟との交渉にあたらせることにしたが、この際ベラルミーノを神学専門家として随行させたのである。ベラルミーノは、ナヴァラ王アンリ(後のアンリ4世)がパリを包囲した際、同市に滞在中であった。
次の教皇クレメンス8世は、ベラルミーノを重用した。ベラルミーノはヴルガータ聖書の改訂版(シクストゥス・クレメンティーノ版)の序文執筆を任され、1592年にローマ学院の院長、1598年に司教の巡察官、1599年には枢機卿に任じられた。クレメンス8世はベラルミーノを枢機卿に任じてまもなく、彼を異端審問担当枢機卿とした。この権限によってベラルミーノはジョルダーノ・ブルーノの裁判に裁判官の一人として出席し、ブルーノを改心の見込みのない異端者として焚刑に処することに同意している。
1602年、ベラルミーノはカプア大司教(en:Archbishop of Capua)に任じられた。ベラルミーノは著作で、一人の人間が複数の司教区を持つことや、名ばかりで教区に住まない不在司教の問題を重視していた。そのため、自分自身は任命を受けて4日後には任地に赴いて模範を示し、司教としての職務を忠実に果たした。この模範はトリエント公会議におけるカトリック改革の方向性に影響を及ぼした。
1605年に選出されたパウルス5世の治世、教皇庁とヴェネツィア共和国との間で激しい争いが起こった。フラ・パオロ・サルピは、ヴェネツィアのスポークスマンとして、教皇の課した聖務停止令(en:Interdict (Roman Catholic Church))に反抗し、コンスタンツ公会議とバーゼル公会議の諸原則を持ち出して、教皇は世俗の諸事に関しては権威を持ち得ないと主張した。ベラルミーノはこのヴェネツィア人神学者に対して3つの返答を著した一方、おそらく暗殺の危険が迫っていることを警告してサルピを助けたと考えられている。
ベラルミーノはさらに有名な敵対者であるイングランド王・スコットランド王ジェームズ1世との論戦でも知られる。ジェームズは自らの神学的学識の深さを誇りとしていた。ベラルミーノはイングランド主席司祭ジョージ・ブラックウェルに手紙を送り、ブラックウェルが教皇に対する服従義務を表面的に破り、忠誠の誓い(en:Oath of Allegiance (United Kingdom))に署名したことを叱責している。ジェームズは1608年にラテン語の論文を執筆してベラルミーノを攻撃してきたが、ベラルミーノはこれに回答を出し、イングランド王のラテン語文法の誤りをからかった。
ジェームズ1世は文法に気をつけながら2度目の論駁のための論文を執筆し、これを神聖ローマ皇帝ルドルフ2世を始めキリスト教世界の全ての君主に献呈すると宣言し、最高にして真実のキリスト教擁護者として振る舞おうとした。これに対するベラルミーノの反論は、多かれ少なかれ提示された全ての論点を踏まえた返答となっている。 1616年、パウルス5世の命令により、枢機卿ベラルミーノはガリレオ・ガリレイを召喚した。ガリレイにもうすぐ制定される禁書目録に関する教令の中で、地球の可動性および太陽の非可動性を主張するコペルニクスの学説が断罪されることを通告したうえで、彼にこの学説を撤回するよう求めたのである。ガリレオはこれを了承した。後にガリレオが無理やり地動説支持を撤回させられ、懺悔を強要されたという非難めいた噂が飛び交ったさい、ベラルミーノはこの噂を否定する内容の証明文書を執筆し、ガリレオはただ単に教令を知らされてこれに服しただけであり、それゆえコペルニクスの学説は「守られても、保たれても」いないと述べた(1633年、この問題に関してガリレオは再び審問のために召喚されることになる)。
晩年になってベラルミーノは故郷モンテプルチャーノに戻り、同地の司教を4年間務めた後、ローマにあるイエズス会のサンタ・アンドレア神学校に移った。ベラルミーノは枢機卿の一人としてレオ11世、パウルス5世、グレゴリウス15世がそれぞれ選出された都合3度のコンクラーヴェで票を得てはいるが、選出の可能性があったのは2度目のときだけであった。
引退生活に入ってからも、ベラルミーノは一般人の精神生活の手助けとなるような小編の本をいくつか執筆している。『魂の神への上昇』(1614年)、『善き死のためのわざ』(1619年)、『(イエスの)十字架上の七つの言葉』などである。ロベルト・ベラルミーノは1621年9月17日、ローマで死去した。
長年にわたり、イエズス会の会員たちは倦むことなくベラルミーノの列聖のための運動を展開し続けた。1930年5月13日、ついにベラルミーノは教皇ピウス11世によって列聖された。さらに翌1931年には教会博士とされた。彼は老衰のためイタリアのローマで亡くなっていたが、その遺体はサンティニャツィオ教会(en:Sant'Ignazio)に安置されている。故人の生前の意向により、安置された場所はベラルミーノの弟子であった聖アロイシウス・ゴンザーガの遺体と隣り合って並べられている。
カトリック教会の聖人暦では、ベラルミーノの記念日は亡くなった9月17日であるが、一部では1969年まで記念日として認定されていた列聖日の5月13日を使っている地域もある。記念日のランク付けでは、1932年から1959年までは「二重祝日」(1932年 - 1959年)、「第3級祝日」(1960年 - 1968年)、1969年からは「任意祝日」であるが、いずれも同等の低ランクなものであり、他の聖人の祝日と重なれば、そちらの方を優先する決まりとなっている。
Blackwell, Richard J. (1991). Galileo, Bellarmine, and the Bible. Notre Dame, IN: University of Notre Dame Press. ISBN 0-268-01024-2
この記事には現在パブリックドメインである次の出版物からのテキストが含まれている: Jackson, Samuel Macauley, ed. (1914). New Schaff-Herzog Encyclopedia of Religious Knowledge (英語) (third ed.). London and New York: Funk and Wagnalls. {{cite encyclopedia}}
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