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ルノーNC型戦車(ルノーNCがたせんしゃ)は、戦間期のフランスで開発された戦車である。第一次世界大戦で登場したルノー FT-17 軽戦車の発展型で、本格的な量産は行われずに終わったが、後のルノー D1戦車の元となった。少数が海外に輸出され、特に日本陸軍が購入し、満州事変で実戦投入された。
第一次世界大戦終結後、フランス軍には大量のルノー FT-17 軽戦車が残された。結果、予算の制約もあり、新型戦車の開発は停滞することになる。しかし、FT-17は小型軽量の手頃な車両ではあったものの、第一次大戦時の塹壕戦に適した仕様で最高速度が遅く、移動には必ず輸送車が必要になるなど、特に平時の利用には機動性に難があった。
最初の改良は、シトロエンのハーフトラック等で使われた、リーフスプリングと鋼芯入りゴム履帯を持つケグレス方式の足回りを装着するもので、車体は基本的にFT-17のままだった。この方式で42両製作されたルノーFT ケグレス=インスタンM24/25は、仏領モロッコでの反乱鎮圧に投入された。改良の結果、最高速度は 17 km/hに向上したが、高速走行をすると履帯が切断するなど構造的に脆弱だった。その後改良型のルノーFT ケグレス=インスタンM26/27も少数作られたが、これらはユーゴスラビアとポーランドに売却された。ユーゴスラビアに輸出されたM26/27は、通常型のFT-17とともにドイツによる侵攻時に実戦投入されている。なお、M24/25、M26/27の呼称は、それぞれ下記のNC2、NC1の別称であるとする解説もある。
その一方で、1923年より、ルノーでは足回りの強化だけでなく、エンジン強化も図った改良型の開発計画を受注していた。これらは「ルノー NC」の社内呼称で、2種の試作型製作が並行して行われた。2つ目の試作型(NC2)のほうが先に、1925年12月に完成したが、これは騎兵科用の高速戦車の要求に則ったもので、前述のタイプ同様、ケグレス方式のリーフスプリングとゴム履帯を持っていた。しかしこの計画は結局放棄された。
1つ目の試作型(NC1)は1926年に完成、こちらは12個の転輪を3本の垂直コイルスプリングで懸架し、鋼製履帯を装着した、新設計の足回りを持っていた。この間、陸軍では後にシャールB1として結実することになる「戦闘戦車」の構想が持ち上がっていたが、こうした大型の戦車を早急に用意することは現実的でなく、代わって「歩兵随伴用軽戦車」の計画が出され、ルノーはNC1 型をベースとしてこの計画に応えることとなった。
一方、ルノーは海外への販路開拓も計画、1928年に試作型1両がスウェーデンに売却されたほか、1929年に日本に10両(1930年に到着)、ポーランドに24両が輸出された。30年代初頭、ギリシャにも1両が輸出された。これらは「ルノーNC27」の名でも知られる。
フランス軍の「歩兵随伴用軽戦車」としては、ルノーは NC1 を基礎にさらに改良を施した試作車両を製作した。これらはルノーの社内呼称では NC28、軍呼称では「シャールD(D型戦車)」と呼ばれた。新型サスペンションと機銃2丁を備えた型と、砲装備型の2種の試作車が作られたが、これらは NC1 の発展型として、それぞれ「NC2」「NC3」とも呼ばれる。このため、以前のゴム履帯式のNC2との混同の原因となっている。
比較の結果、砲装備型が選ばれ、1929年12月、ルノー社内呼称では NC31 と呼ばれる先行生産型10両の注文が行われた。量産型ではさらに改修が施され、これがルノー D1となった。
日本陸軍は、ルノーNC型戦車の購入を打診され、1930年(昭和5年)にフランスから23輌輸入した。運用側では、以前に輸入したルノー FT-17軽戦車と区別するために、「ルノー乙型戦車」と呼称した。
元のルノーNC型戦車にはピュトーSA18 37mm戦車砲搭載型とオチキス機銃搭載型があったが、後の日本陸軍への導入時(無武装状態で輸入し、日本側で日本製の火器を搭載できるように砲塔を改修した)に、37mm改造狙撃砲と、6.5mm改造三年式機関銃もしくは十一年式軽機関銃に換装された。
日本の戦車生産能力の不足もあって輸入されたルノーNC27であったが、性能は軍が期待したほどではなく、前年に仮制式化された国産の八九式軽戦車を下回るものであった。
転輪軸が折れたり、ハッチなど扉を開けても車内が加熱しやすくエンジン冷却液の補充が頻繁に必要になるなど故障やトラブルが多く、納入された車両には時速18キロも出ない物もあったという。ルノーの技師を呼んだが、日本の湿気が多い環境や、連続走行など日本側の運用に問題があると突き放され、中華民国など諸外国への売却を考えたが実現せず、最終的に技術本部で、足回りを強化するなど、対策を施す改修をした[1]。この改修により、当初7.9 tだった重量が、8.5 tに増大した。
1931年(昭和6年)に勃発した満州事変では百武俊吉大尉率いる臨時派遣第1戦車隊に配属され、翌年に起きた第1次上海事変では重見伊三雄大尉率いる独立戦車第2中隊に配属されたが、早々に八九式軽戦車に取って代わられた。
1932年(昭和7年)11月にルノー乙型と八九式軽戦車に対して行われた対戦車弾丸効力試験では、スペック上の装甲厚では八九式軽戦車に勝っているはずのルノー乙型が、フレームや鋲接接合部分が脆弱で、試験終了後には、装甲板がフレームから脱落してバラバラになって原型を保っていなかったことも、見切りをつけられた原因の一つと思われる。
なお、従来から装備していたルノーFT-17を「ルノー甲型」と改名し、ルノーNC27を「ルノー乙型」としたという説もあるが、ルノーNC27があまりに欠陥が多いため、改修したルノーNC27を改修前の車輌と区別するために「ルノー乙型」と改名したとする資料もある。
中国大陸から日本本土へ引き揚げられたルノー乙型戦車は、各地の戦車学校で訓練用戦車として使われた後、展示車輛となった。
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