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ポルトガルのサッカー選手 ウィキペディアから
ルイ・ペドロ・ドス・サントス・パトリシオ(Rui Pedro dos Santos Patrício, 1988年2月15日 - )は、ポルトガル・レイリア県マラゼス出身のサッカー選手。アタランタBC所属。ポルトガル代表。ポジションはゴールキーパー。
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ポルトガル代表でのパトリシオ (2018年) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ルイ・ペドロ・ドス・サントス・パトリシオ Rui Pedro dos Santos Patrício | |||||
ラテン文字 | RUI PATRICIO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ポルトガル | |||||
生年月日 | 1988年2月15日(36歳) | |||||
出身地 | マラゼス | |||||
身長 | 189cm[1] | |||||
体重 | 84Kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | アタランタBC | |||||
ポジション | GK | |||||
背番号 | 28 | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
1997-2000 | Leiria e Marrazes | |||||
2000-2006 | スポルティングCP | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2006-2018 | スポルティングCP | 327 | (0) | |||
2018-2021 | ウルヴァーハンプトン | 112 | (0) | |||
2021-2024 | ローマ | 96 | (0) | |||
2024- | アタランタBC | |||||
代表歴2 | ||||||
2003-2004 | ポルトガル U-16 | 5 | (0) | |||
2004-2005 | ポルトガル U-17 | 11 | (0) | |||
2005-2006 | ポルトガル U-18 | 4 | (0) | |||
2006-2007 | ポルトガル U-19 | 10 | (0) | |||
2007-2008 | ポルトガル U-20 | 8 | (0) | |||
2007-2010 | ポルトガル U-21 | 14 | (0) | |||
2010- | ポルトガル | 108 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2024年8月28日現在。 2. 2024年5月23日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
幼い頃はストライカーとしてプレーしていた。スポルティングCPの下部組織に入団し、2006年11月19日のCSマリティモ戦 (1-0) でデビューして完封勝利を収めた。この試合ではクラブとポルトガル代表でそれぞれレギュラーだったリカルド・ペレイラの代役としてプレーし、試合終了15分前にはペナルティキックを止めている。2007年夏にはリカルドがスペインのレアル・ベティスに移籍したため、ベテランのティアゴ・フェレイラや新加入のヴラディミル・ストイコヴィッチとポジション争いを繰り広げ、最終的にパトリシオがポジションを掴んだ。11月27日、UEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグのマンチェスター・ユナイテッド戦で同大会初出場を果たしたが、1-2で敗れた。2008年夏には同胞のジョゼ・モウリーニョ監督率いるイタリアのインテル・ミラノへの移籍が噂された[2]。2008年のスーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラではFCポルトと対戦し、ルイス・ゴンサレスのPKをセーブする活躍で2連覇に貢献した。2008-09シーズンも変わらずレギュラーとしてプレーした。2009年8月4日、UEFAチャンピオンズリーグ予選のFCトゥウェンテ戦2ndレグは94分の段階で0-1と劣勢であり、1stレグで0-0と引き分けていたため大会からの敗退が濃厚であったが、試合終了間際のコーナーキックの際にゴール前にするすると上がり、ヘディングシュートを放って劇的な決勝点を演出した[3][4]。2009-10シーズンは30試合すべてにフル出場し、リーグ3位タイの26失点に抑えたが、得点力不足のチームは4位に終わった。
2018年6月18日、ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCと4年契約を締結したことが発表された[5]。背番号はGKとしては珍しい11に決定した。
2021年7月13日、1150万ユーロの移籍金でASローマに移籍し、3年契約を締結した[6]。UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ決勝のフェイエノールト戦では好守を連発して優勝に貢献した[7]。2023-24シーズン途中にジョゼ・モウリーニョが監督を解任され、ダニエレ・デ・ロッシが新たに監督に就任すると、ミレ・スヴィラルにポジションを奪われた[8]。
2007年にU-21ポルトガル代表に初招集された。2008年1月29日にはルイス・フェリペ・スコラーリ監督によってポルトガルA代表に初招集され、スイスのチューリッヒで行われたイタリア代表との親善試合 (1-3) に臨んだが、その試合で出場機会は訪れなかった。5月12日にはUEFA EURO 2008に臨む23人のメンバーに選出され、リカルド・ペレイラ、ヌーノに次ぐ第3GKとして大会に参加した。
2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選では、終盤のハンガリー戦とプレーオフのボスニア・ヘルツェゴビナ戦でベンチ入りしたが、キム、ベト、ダニエル・フェルナンデスなど先輩達の前にやはり出場機会はなかった。2010 FIFAワールドカップ本大会に向けた代表候補24人に選ばれたが[10][11]、最終的に本大会に出場する23人を決定する段階で落選し、6人のバックアップメンバーに回った[12]。2010年11月17日、スペインとの親善試合 (4-0) の後半にA代表デビューを果たし、2010 FIFAワールドカップ優勝国相手に無失点に抑えた。2011年に入ると、W杯で正GKを務めたエドゥアルドに代わってゴールを守る機会が増加。UEFA EURO 2012、2014 FIFAワールドカップに出場し、UEFA EURO 2016ではレギュラーとしてポルトガル代表の初優勝に貢献、2018 FIFAワールドカップでも引き続きレギュラーとしてプレーした。
2022 FIFAワールドカップでは、予選終盤にて若手のディオゴ・コスタにポジションを奪われ、第2GKに降格。本大会は控えとして大会に参加した。
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