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ヨハネス19世(Ioannes XIX、? - 1032年10月9日)は、ローマ教皇(在位1024年 - 1032年)。もとの名はロマーノ・デイ・コンティ・ディ・トゥスコロ(Romano dei Conti di Tuscolo)。ラテン語名はロマヌス・コメス・トゥスクリ(Romanus Comes Tusculi)。
ヨハネス19世 | |
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第144代 ローマ教皇 | |
教皇就任 | 1024年4月19日 |
教皇離任 | 1032年10月9日 |
先代 | ベネディクトゥス8世 |
次代 | ベネディクトゥス9世 |
個人情報 | |
出生 |
不明 教皇領、ローマ |
死去 |
1032年10月9日 教皇領、ローマ |
その他のヨハネス |
ローマの有力者トゥスコロ家に生まれ、兄のベネディクトゥス8世(在位1012年 - 24年)のあとを継いで教皇に選出された。選出された時には、聖職者経験のない俗人で、執政官および元老院議員の肩書きしか有していなかったため、教皇に就任するにあたり、司教に任命された。
ヨハネス19世は、それまでの教会の方針に反して、多額の賄賂と引き換えにコンスタンディヌーポリ総主教庁に司教の肩書きを与えることを約束したものの、聖職者たちからの大きな反対を受け、即座に約束の撤回に追い込まれた。
1024年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世(在位1002年 - 1024年)の死に際し、ヨハネス19世はコンラート2世(在位1024年 - 1039年)の即位を支持し、コンラート2世は1027年の復活祭(3月26日)にサン・ピエトロ大聖堂にて戴冠を受けた。
同年の4月6日、ラテラノ教会会議を開き、アクイレイア総大司教に対して総大司教の地位を認め、対立していたグラード総大司教を支配下に置くことを宣言した。しかし、1029年にはこの宣言を撤回し、グラードに再びその地位を認めた。他に、バーリの大司教ビザンティウスに公開勅書を与え、その12座の属司教の聖別権を付与した。
ヨハネス19世の死後、その甥に当たるベネディクトゥス9世がその地位を継承した。この時ベネディクトゥスはまだ若年であったといわれ、史料によっては12歳であったと伝えるが、通説ではおそらく18歳から20歳程度であったとされている。
なお、ヨハネス20世は存在せず、次にヨハネスを名乗ったのは1276年に位に就いたヨハネス21世である。また、ヨハネス16世は対立教皇であったため、正確にはローマ教皇としてのヨハネスは18人目であったが、同時代にはこのような認識はなく、16人目の教皇ヨハネスは自らをヨハネス17世と名乗ったため、18人目の教皇ヨハネスも19世となった。さらに一部の歴史家は、ヨハネス14世とヨハネス15世の間に、もう一人別の教皇ヨハネスがいたという伝説に基づき、ヨハネス19世を、ヨハネス20世、あるいはヨハネス19世(20世)と呼んでいる。このようなことから、教皇ヨハネスの代数は非常に複雑なものとなっている。
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