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ヨハネス・ヨンストン(Johannes Jonston、ポーランド名: Jan Jonston、イギリス名:John Jonston、ラテン語名: Johannes Jonstonus、1603年9月15日 – 1675年6月8日[1])は、スコットランドを出自とするポーランドの博物学者。著書、『鳥獣虫魚図譜』("Historiae naturalis de quadrupedibus libri, cum aeneis figuris"など5巻にわたる図説)はヨーロッパに広まり、日本にもオランダ商館長からオランダ語版が江戸幕府に献上された。将軍、徳川吉宗の命によって、野呂元丈によって、『阿蘭陀畜獣虫魚和解』(1741年)として抄訳された[2][3]。
1603年にシャモトゥウィで生まれた。父親はスコットランドから貴族民主主義の国家、ポーランド・リトアニア共和国に移住した人物で、一緒に移住した叔父の援助で教育を受けた。オストルク(Ostroróg)、ビトムのSchoenaichianumで学んだ後、1619年からトルンの高校で学んだ。カルヴァン派の新教徒であったのでポーランドのカソリックが支配するヤギェウォ大学には進めず、スコットランドのセント・アンドルーズ大学で、神学、スコラ哲学、ヘブライ語を学び学位を得た。
1625年にポーランド・リトアニア共和国に戻り、1628年までレシュノの名家、Kurtzbach-Zawadski家の家庭教師を務めた。その頃『自然史ハンドブック』("Enchiridion historiae naturalis")を出版し、この著作は1657年になって英語に翻訳された。
1628年からドイツなどに旅し、研究を再開し、ケンブリッジ大学、フランクフルト大学、ライデン大学で植物学や医学を学んだ。オランダのデーフェンテルの学校の教授になることを求められたが、ポーランドに戻り、貴族のラファウ・レシチニスキの屋敷に留まり、息子のボグスワフ・レシチニスキの家庭教師として働いた。1632年にボグスワフ・レシチニスキや他の貴族の子息とヨーロッパの大学を巡り、1634年にライデン大学とケンブリッジ大学から、学位(M.D.やPh.D.)を得て[4]、ラファウ・レシチニスキの訃報が届いた1636年まで旅を続けた。ポーランドに戻った後はレシュノのアカデミーで教え、同じくレシュノで教えていたコメニウスの友人であった。
哲学、神学、博物学を学び、百科事典というべき多くの著作を残した。
「鳥獣虫魚図譜」は1650年から1653年の間に5巻で出版され、フランクフルトのマテウス・メーリアン(Matthäus Merian)の出版所から出版された。1025ページの文章と2859点の四足動物、鳥、魚、鯨、虫、蛇およびドラゴンの図版が添えられていた。図版はコンラート・ゲスナーやウリッセ・アルドロヴァンディらの書籍の図版をもとにメリアンの工房で製作された。
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