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メアリー・フラー(Mary Fuller, 1888年10月5日 - 1973年12月9日)は、アメリカ合衆国の女優、脚本家である[1]。出生名はメアリー・クレア・フラー(Mary Claire Fuller)[1]。日本では大正時代にメリー・フーラーとも紹介された[2]。世界初のフランケンシュタイン映画『フランケンシュタイン』、世界初のシリアル・フィルム『何がメリーに起こつたか』に主演したことで知られる[1]。
1888年(明治21年)10月5日、ワシントンD.C.に生まれる[1]。
最初のキャリアは舞台女優で、一座とともに旅をし、ニューヨーク滞在中に一座が解散してしまい、ヴァイタグラフ・スタジオに活路を求めたのが、映画界入りのきっかけである[1]。満19歳を迎える1907年(明治40年)に公開された The Ugly Duckling が、もっとも古い映画への出演記録であるが[1]、本格的に同スタジオに入社するのは1908年(明治41年)のことである[1]。以降、同社が量産する1巻もの(10分程度)の短篇映画に多く出演する。1910年(明治43年)には、メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』の世界初の映画化『フランケンシュタイン』に主演している[1][3]。1912年(明治45年)7月26日に公開された、世界初のシリアル・フィルム(連続活劇)であるチャールズ・ブレイビン監督の『何がメリーに起こつたか』(全12章)に主演する[1][4]。1913年(大正2年)には、自らの主演作の脚本も書き始めている[1]。
1914年(大正3年)には、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、フローレンス・ローレンスとハリー・ソルターが始めてすでにユニヴァーサル傘下の製作会社となっていたヴィクター・スタジオが量産する短篇映画に多く主演する[1]。1915年(大正4年)に初めてコンビを組んだ監督ルーシャス・ヘンダーソンの量産するほぼすべての短篇映画に主演し、その間、1916年(大正5年)にユニヴァーサル傘下に設立されたブルーバード映画で、同年、同じくヘンダーソンが監督した The Strength of the Weak に主演したが[1]、ほとんどの作品が日本で公開されたブルーバード作品のなかでも、同作は公開されていない[1]。満29歳を迎える1917年(大正6年)、 To the Highest Bidder に主演したのを最後に、人気絶頂期に映画界を去る[1]。
1924年(大正13年)、ある雑誌が発見したところによれば、メアリーは故郷のワシントンD.C.で母とともに暮らしていたという[1]。同誌によれば、映画界の過重労働に疲れたことが引退の理由であり、当時は悠々自適の暮らしをしていたという[1]。ただ再度、映画製作への希望を持っていることを同誌が掲載するや、再び消息を絶ってしまう[1]。
消息が報道されて49年、引退から56年が経過した1973年(昭和48年)12月9日、ワシントンD.C.の病院で老衰により死去した[1]。満85歳没。同市内にあるアメリカ連邦議会墓地に墓碑銘を持たずに眠る[5]。
2010年(平成22年)6月8日、メアリーが主演したシリアル『婦人記者』(1914年)のプリントがニュージーランドで発見されたと報じられた[6]。
特筆以外すべて出演作である[1]。ヴァイタグラフ時代にあたる1907年 - 1914年の180作近い短篇・シリアル作品[1]についてはおもなものに留めた。
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