ムスチスラフ3世(ムスチスラフ・ロマノヴィチ)ロシア語: Мстислав Романович Старыйウクライナ語: Мстислав Романович Старий、1156/62年 - 1223年6月2日)は、ロマン・ロスチスラヴィチの子。スモレンスクのモノマフ一門(ウラジーミル・モノマフを始めとする家系)の出である。プスコフ公(在位:1180年 - 1195年)、スモレンスク公(在位:1197年 - 1214年)、ベルゴロド公(在位:1206年 - 1207年)、キエフ大公(在位:1214年 - 1223年)。 

概要 ムスチスラフ3世 Мстислав Романович, 在位 ...
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略歴

1176年ロストヴェツにおいて、叔父リューリク、兄ヤロポルクと共にポロヴェツ族との戦いに参加し、敗戦している(ロストヴェツの戦い)。これがムスチスラフが政治の舞台に登場した最初の記録である。

1178年、父によって、ムスチスラフ・ロスチスラヴィチと争っていたヴィテプスク公フセスラフ・ヴァシリコヴィチの援軍として派遣され、ノヴゴロドにおけるムスチスラフ・ロスチスラヴィチの主導権を遮断して紛争を収めた。

1185年ホロール川でのポロヴェツ族との戦いに参加し、戦いを終結に導いた。

1195年チェルニゴフのオレグ家諸公がヴィテプスクへの遠征軍を組織し、途上でスモレンスクの地を破壊し始めた。ムスチスラフは、叔父のスモレンスク公ダヴィドの命によって迎撃に出た。戦闘は初め優勢だったが、ポロツク公国軍に背後を衝かれ捕虜になった(ルーシ内戦 (1195年 - 1196年))。また、1197年には叔父ダヴィドの死によりスモレンスク公となった。

1214年、従兄弟のムスチスラフ・ムスチスラヴィチノヴゴロド公となり、ムスチスラフをキエフ大公とした。なおムスチスラフ・ムスチスラヴィチは、次の夏までにガーリチに基盤を築いている。

1223年、モンゴル帝国軍の最初の侵攻の情報がもたらされると、ムスチスラフとムスチスラフ・ムスチスラヴィチは、キエフにて、モンゴル軍に対する諸公との会議を取り持った。しかし、肝心のカルカ河畔の戦いでは川岸の要塞化を怠り、3日で侵略を許した。諸公の連合軍は敗れ、ムスチスラフは捕虜となり処刑された。

子女

出典

参考文献

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