ムスタファ・ジェミーレフクリミア・タタール語: Mustafa Abdülcemil Qırımoğlu/Мустафа Абдюльджемиль огълу Джемилевロシア語: Мустафа Джемилевウクライナ語: Мустафа Джемілєв1943年11月13日 - )は、クリミア・タタール人の民族運動家、政治家。

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ムスタファ・ジェミレフ 2014年

クリミア・タタール人の民族自治組織であるクリミア・タタール民族会議(メジュリス)ロシア語版英語版の初代議長。ウクライナ最高会議代議員。

経歴

ジェミーレフは、1943年にクリミア半島南部のスダクウクライナ語版ロシア語版で生まれた。生後すぐに、スターリンによる強制移住が行われ、ジェミーレフは家族と一緒にウズベキスタンに追放された。

タシュケントの航空機工場で旋盤工として勤務する中、1961年に「青年クリミア・タタール人同盟」を結成し、クリミア・タタール人のクリミアへの帰還運動を開始する。反政府活動の疑いで、1966年から1986年の間に6度の投獄を経験する。また、1975年には303日間のハンガーストライキを実施し、国際世論にソ連邦内の民族問題の存在をアピールしたことで知られる。

ソ連政府により、強制移住措置の解除が決定されると、1989年には、新しく設立されたクリミア・タタール運動組織(Организация Крымскотатарского Национального Движения (ОКНД))の指導者に選出され、家族と共にクリミアへの帰還を果たした。

1991年には、ソ連邦内の全クリミア・タタール人から代議員の選出を実施し、クリミア・タタール人の最高意思決定機関であるクリミア・タタール民族大会(クルルタイ)をシンフェロポリにて開催させた。クルルタイの大会では、執行機関としてクリミア・タタール民族会議(メジュリス)ロシア語版英語版が選出され、ジェミーレフが議長に選出された。

1998年からは、ウクライナ最高会議の議員も務め、2004年の大統領選挙では政治ブロック「我らのウクライナ」のメンバーとしてヴィクトル・ユシチェンコ候補を支援した。

2014年クリミア危機の後に生じたロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入に対してジェミーレフは「(ロシアへの編入を問う)住民投票をタタール人が認めたことも、認めることもない」と主張した[1]。編入後、メジュリスはロシア政府によって過激派と認定され、活動禁止を命じられた[2]

私生活

1998年に、国際連合難民高等弁務官事務所 (UNHCR) からナンセン難民賞を受賞。

妻帯、3児の父親である。

脚注

関連項目

外部リンク

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