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ミシェル・ムートン(Michèle Mouton、1951年6月23日 - )は、フランスの元ラリードライバー。1980年代に世界ラリー選手権(WRC)で女性初の優勝を飾るなどWRCのトップレベルで活躍したことで知られ、「史上最も成功した女性レーシングドライバー」と評される[1]。現役引退後は国際自動車連盟 (FIA) の要職を努めている。
ミシェル・ムートン | |
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2011年サロン・アンテルナショナル・ド・ロトにて | |
基本情報 | |
国籍 | フランス |
生年月日 | 1951年6月23日(73歳) |
出身地 | フランス アルプ=マリティーム県グラース |
WRCでの経歴 | |
活動時期 | 1973年 - 1986年 |
所属チーム | フィアット アウディ プジョー |
出走回数 | 122 |
優勝回数 | 4 |
表彰台回数 | 9 |
ステージ勝利数 | 162 |
通算獲得ポイント | 229 |
初戦 | 1973 ラリー・モンテカルロ(コ・ドライバーとして) |
初勝利 | 1981 サンレモ・ラリー |
最終勝利 | 1984 ラリー・ブラジル |
最終戦 | 1986 ツール・ド・コルス |
ニックネームは「Shelley」。後のフォルクスワーゲングループ内プロジェクトでもあるアウディ・TTSの無人走行試作車のサブネームにも冠された[2]。
ムートンは高校を卒業して法学を学んだが、すぐラリーに熱中するようになった。WRCに初参戦した1973年モンテカルロでは、プジョーに乗るジーン・タイビのコ・ドライバーを務めていた。その後父親の勧めでドライバーに転身し、翌1974年のツール・ド・コルスでドライバーとしてWRC初参戦を果たした。アルピーヌ・A110、アウトビアンキ、フィアット・131アバルト、ランチア・ストラトスHF(シャルドネ)と乗り継ぎ、地元中心のみのプライベーター参加に留まるが完走率は高いものであった。
1975年、女性3名のドライバーでル・マン24時間レースへ参戦してクラス優勝するなど、ラリー以外のモータースポーツ活動にも精力的であった。
1981年にアウディのワークスチームの一員となり、4WDターボ革命を起こしたアウディ・クワトロを駆り、ラリー・サンレモでWRC初優勝を果たす。これはWRCにおける初の女性ドライバーの勝利となった。また、コ・ドライバーもイタリア人女性のファブリツィア・ポンス (Fabrizia Pons) という、女性クルーによるWRC優勝でもあった。
翌1982年はポルトガル、ブラジル、アクロポリスとシリーズ3勝を挙げ、オペルのヴァルター・ロールと激しいドライバーズタイトル争いを演じた。最終戦前のアイボリー・コーストラリーでは1時間近いリードを得るもメカニカルトラブルによりリタイア。この瞬間王者がロールに確定し、惜しくも年間ランキング2位となった。一方でアウディ初のマニュファクチャラータイトルに貢献した。
その後も1985年にアメリカのパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムで総合優勝を果たすなど、一線級のラリードライバーとして活躍したが、1986年シーズンを最後にグループBマシンがWRCから姿を消すのと時を同じくして現役を引退した。
引退後の1988年には、1986年のツール・ド・コルスで事故死したヘンリ・トイヴォネンの追悼を目的に、ラリーやF1を含めた世界の一流ドライバーが腕を競うイベント「レース・オブ・チャンピオンズ(ROC)」を開催した。その後もROCは年末の恒例イベントとして定着しており、ムートンは現在もROC主催者の副代表を務めている。
2010年には国際自動車連盟 (FIA) の女性初の役員として、女性のモータースポーツ参画を促進するため設立された「ウーマン&モータースポーツ・コミッション(WMC)」の議長に就任した[3]。2022年、WMC議長の座をデボラ・マイヤーに譲り退任[4]。
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