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フランスのサッカー選手 ウィキペディアから
ミシェル・イダルゴ(Michel Hidalgo, 1933年3月22日 - 2020年3月26日)は、フランス出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
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1981年のイダルゴ | ||||||
名前 | ||||||
ラテン文字 | Michel Hidalgo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | フランス | |||||
生年月日 | 1933年3月22日 | |||||
出身地 | ノール県ルフランクーク | |||||
没年月日 | 2020年3月26日(87歳没) | |||||
身長 | 168cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
1946-1952 | USノルマンディ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1952-1954 | ル・アーヴル | 54 | (14) | |||
1954-1957 | スタッド・ランス | 77 | (29) | |||
1957-1966 | モナコ | 301 | (31) | |||
代表歴 | ||||||
1962 | フランス | 1 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1967-1968 | モナコB | |||||
1968-1969 | RCメントン | |||||
1976-1984 | フランス | |||||
1988 | マルセイユ (暫定) | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
父はスペイン人の冶金労働者で、母はパリ地域の出身[1]。一卵性双生児の兄弟、セルジュがいる。一家はノルマンディー冶金会社の高炉近くにあり、カーンの郊外にある労働者の町モンドヴィルに移り住んだ[2]。イダルゴはノルマンディーで育ち、地元のサッカークラブでサッカーを学んだ。
ル・アーヴルACで選手経歴を開始し、2年後にスタッド・ランス移籍した。ランスではFWのレイモン・コパやDFのロベール・ジョンケらと共に中心選手として活躍し、2度のリーグ優勝と、2度のクープ・ドゥ・フランス優勝、1956年のUEFAチャンピオンズカップ準優勝に貢献。チャンピオンズカップ決勝のレアル・マドリード戦では3-4で敗れたものの、1得点を決める活躍をみせた。
引退後は指導者の道へ進み、フランスサッカー協会の指導スタッフを務めた。1976年3月27日に、シュテファン・コヴァチの後任としてフランス代表の監督に就任した。イダルゴはフランスらしいテクニックを重視したサッカーを標榜し、ミシェル・プラティニを筆頭に若く才能ある選手達を積極的に起用した。1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会出場に導くと、1982年のFIFAワールドカップ・スペイン大会では4位、地元開催となった1984年のUEFA欧州選手権では、プラティニを中心としたサッカーで同国を初優勝に導いた。フランス代表監督として、1976年から1984年の間に75試合の指揮を執り41勝16分18敗、139得点72失点の成績を残した。
欧州選手権を最後に監督を勇退し、フランス代表のテクニカルディレクターを務めていたが、1986年からはオリンピック・マルセイユのゼネラルマネージャー、1991年からは解説者として活躍した。2004年にコンゴ代表監督として、現場への復帰を果たした。
2020年3月26日、87歳で死去[3]。
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