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1903年にブラジルとボリビアとの間で締結された条約 ウィキペディアから
ペトロポリス条約(伯: Tratado de Petrópolis)は、ブラジルとボリビアとの間で結ばれた条約である[1]。アクレ紛争の原因となったアマゾン地域の権利関係について両国の合意がなされ、1903年11月17日にブラジルリオデジャネイロ近くのペトロポリスで署名された。
この条約で、ボリビアはアブナ川の北側、約191,000平方キロメートル(現在のブラジルアクレ州)を、ブラジルに割譲した[2][1]。一方、ブラジルは、ボリビアに200万英ボンドの支払いと[2]、1867年に締結されたアヤクチョ条約ではブラジル領であったマモレ川とアブナ川で囲まれていた領約3,200平方キロメートルを譲渡[1]、マデイラ川の港、ポルト・ヴェーリョから、両国の国境が通るマモレ川沿いのブラジル側の町、グアジャラ・ミリンまでの鉄道建設(マデイラ・マモレ鉄道)を約束した[1]。
詳細は「アクレ紛争」を参照
アクレ紛争は、1899年から1903年にかけて、当時ボリビアの領土であったアクレ地方で起きた。これは、世界的なゴム需要の高まりにより、パラゴムノキが自生していたアクレ地方には、一攫千金を狙って多くの入植者が集まった。特にブラジル人は、1898年まで、少なくとも80,000人がアクレ地方に入植した[3]。この状況に、ボリビアは、税を課すなどの方針をとったため、ブラジル人の入植者が独立を主張して反乱を起こした。
これに対して、ブラジルは、外務大臣であったリオ・ブランコ男爵の称号を持つホセ・マリア・ダ・シルバ・パラノス・ジュニオール(以後、「リオ・ブランコ男爵」と呼称)が、干渉を行った。1902年12月26日、ボリビア政府に対して「アクレ地方のブラジルへの併合と、代償として十分な対価を支払うこと」を提案した[4]。
リオ・ブランコ男爵は、1903年2月6日、ボリビア政府に対して、アクレへの遠征を中止と、受け入れられない場合には交戦も辞さないとする最後通牒を行った[5]。これは外交上の駆け引きではなく、実際に、ブラジルはボリビアとの国境線に数千の兵を移動させていた[5]。1903年3月21日、ボリビアのマヌエル・パンド大統領は、正式にブラジルの提案を受け入れた[5]。
以下に、ペトロポリス条約で合意した項目の概要を示す[6]。
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