ベイレルベイ

イスラム圏の高官・太守 ウィキペディアから

ベイレルベイ (オスマン語: بكلربكیトルコ語: beylerbey) とは、ルーム・セルジューク朝イルハン朝サファヴィー朝オスマン帝国など、中世後期から近世にかけての西イスラーム世界における高官である。 「ベイの中のベイ」、すなわち「司令官の司令官」「支配者の支配者」を意味し、当初のテュルク諸語では「ベグレルベグ (Beglerbeg[i])」であった。

最初は最高指揮官を示す言葉だったが、最終的には上級地方知事を表すようになった。 この官位が最も長く残っていたオスマン帝国では、最も大きくて重要な地方の総督を意味していたが、のちには単なる名誉職へと変わっていった。 アラビア語ではアミール・アル・ウマラー、ペルシア語ではミーリ・ミーラーンがこれに相当する。 この称号はまた、インド(のちにはパキスタン)藩王国のカラートのハーン家にも使われていた。

初期の使用

「ベイレルベイ」の称号はセルジューク朝に始まり、ルーム・セルジューク朝でも、「マリク・アル・ウマラー(指揮官の長)」のアラビア語の称号の代わりとして使われた[1]モンゴル系イルハン朝では、「ベイレルベイ」の称号は、「アミール・アル・ウルス(国の首長)」の長を表すものとして使われた。 これはチュルク語では称号「ウルスベジ」、アラビア語では「アミール・アル・ウマラー」としても知られている。 一方、ジョチ・ウルスでは、「ベイレルベイ」は「アミール・アル・ウルス」の官位保持者すべてに適用できる語とされた[1][2]。 マムルーク朝ではおそらく、「アタベク・アル・アサーキル(軍の司令官)」の別称として「ベイレルベイ」の語を使用した[1]

オスマン帝国における使用

サファヴィー朝における使用

Thumb
ダーウード・ハーン・ Undiladze。1625年から1630年にかけて、ギャンジャカラバクフグラームとベイレルベイを務めた。

ペルシアサファヴィー朝では1543年もしくは1544年から、一般的な長官に「ハキーム」、より重要な地域の長官に「ベイレルベイ」の称号を使うようになった。 「ベイレルベイ」の称号が使われたのは、ヘラートアゼルバイジャンギャンジャカラバフシルヴァンファルスイラクアスタラバードである[3]。 サファヴィー朝はまた、さらに重要な地域の長官には、「ワーリー」の称号を用いている。 サファヴィー朝の終末期には、特にシャーのグルジアの地の長官には、「ベイレルベイ」よりも「ワーリー」を使うことが増えた[2][4]

脚注

文献

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.