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第3代ウェリントン公爵ヘンリー・ウェルズリー(英語: Henry Wellesley, 3rd Duke of Wellington、1846年4月5日 – 1900年6月8日)は、イギリスの貴族、軍人、政治家。1874年から1880年まで庶民院議員を務めた[1]。軍人としての最終階級は少佐[1]。
チャールズ・ウェルズリー卿(初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーの次男)と妻オーガスタ・ソフィア・アン(Augusta Sophia Anne、旧姓ピアポント(Pierrepont)、1820年5月30日[2] – 1893年7月13日、ヘンリー・ピアポント閣下の娘)の次男(長男アーサーは1歳で夭折)として、1846年4月5日にアプスリー・ハウスで生まれた[3][1]。1859年から1863年までイートン・カレッジで教育を受けた[1]。
1865年5月16日、Ensign and Lieutenantへの辞令を購入して、グレナディアガーズに配属された[4]。1868年8月1日、Lieutenant and Captainへの辞令を購入して昇進した[5]。1871年5月17日にマスケット銃教官(Instructor of Musketry)に任命され[6]、1874年2月に辞任した[7]。1876年4月1日、Captain and Lieutenant-Colonelに昇進した[8]。1881年7月1日にMajor and Lieutenant-Colonelに昇進した後[1]、1882年6月28日に軍務から引退した[9]。
1868年イギリス総選挙で保守党候補としてアンドーヴァー選挙区(1人区)から出馬、得票数2位(307票)で落選した[10]。1874年イギリス総選挙で再び出馬、395票で当選したが、1880年イギリス総選挙では364票(得票数2位)で落選した[10]。
1884年8月13日に伯父アーサー・リチャードが死去すると、ウェリントン公爵位を継承した[3]。同年11月22日、ハンプシャー砲兵大隊(民兵隊)の名誉隊長に任命された[11]。1886年4月10日、ウェリントン公爵連隊の第3、4大隊(いずれも民兵で構成された大隊)の名誉隊長に任命された[12]。これらの名誉隊長職は1900年に死去するまで務めた[1]。
1900年6月8日にストラトフィールド・セイで死去、12日に同地で埋葬された[1]。弟アーサー・チャールズが爵位を継承した[1]。
1882年3月7日、エヴリン・カトリン・グウェンフラ・ウィリアムズ(Evelyn Katrine Gwenfra Williams、1939年3月11日没、トマス・ピアース・ウィリアムズの娘)と結婚したが[1]、2人の間に子供はいなかった[3]。
第3代ウェリントン公爵の死後、エヴリンは1904年に同じくウェルズリー家のフレデリック・アーサー・ウェルズリー閣下(Hon. Frederick Arthur Wellesley、1931年2月9日没、初代カウリー伯爵ヘンリー・ウェルズリーの三男)と再婚した[1]。
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