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ドイツの哲学者、神学者 ウィキペディアから
ブルーノ・バウアー(Bruno Bauer 1809年9月6日 - 1882年4月13日)は、ドイツ出身の神学者・哲学者・歴史学者。青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の代表的な存在である。無神論に基づくキリスト教・ユダヤ教などへの宗教批判など、その鋭い視点から多くの著作を表し、青年ヘーゲル派の主導的役割を果たした。若きカール・マルクスもバウアーの影響下でヘーゲル哲学を学んだ。唯一者の思想を展開したマックス・シュティルナーとの関係、そして無神論的な思想、国家と宗教の分離(政教分離)、ヨーロッパ世界の崩壊の予言は、フリードリヒ・ニーチェの思想へつながるものを思わせる。なお、弟のエトガー・バウアーも青年ヘーゲル派を代表する思想家である。
バウアーは、ザクセンで陶磁器の彩色職人の長男として生まれた。彼は、聖職者として身を立てるように嘱望され、ベルリン大学へ進学。当時、ドイツ中でブームを巻き起こしていた大哲学者ヘーゲルの講義を聞く。弱冠20歳にしてカントの美学論に関する論文を執筆。ヘーゲルに絶賛される。ヘーゲルが1831年に死去したが、1834年には学位取得と同時に、神学部で講師として教壇に立つ。この頃は、「忠実なヘーゲル学徒(つまり老ヘーゲル派)」として、ヘーゲル哲学について講じたり、マールハイネッケらとともにヘーゲルの宗教哲学の編纂に従事したりしていた。1839年にはボン大学へ移籍。私講師として講義した。
1841年、バウアーは著作『無神論者・反キリスト教徒ヘーゲルに対する最後の審判ラッパ』で神への信仰は普遍的自己意識の獲得を阻害するとして批判し、また神聖同盟下のドイツにおける教会と国家の結合を批判した[1]。しかし、プロイセン王国政府の検閲によってバウアーは1842年春にボン大学講師職を剥奪された[1]。
無神論的な立場を表明したバウアーは、ベルリンのヘーゲル左派らで構成されたグループ「フライエン」の代表的な人物となり、フォイエルバッハやシュティルナーなどと当時の国家・政治・宗教について語り合った。
同1842年には「共観福音史家とヨハネの福音史批判」を発表。この頃からヘーゲル右派から決別、ヘーゲル左派へと立場を変える。この書の内容は、同じヘーゲル左派ダーウィト・シュトラウス「イエスの生涯」(1835年)の福音書を「神話」であるとする立場をさらに進め、キリスト教の福音書の内容を共観福音史家(つまりマタイ・マルコ・ルカ)による自己意識(あるいはヘーゲルでいう「主体的精神」)による「創作」であるとした。つまり、バウアーはシュトラウスの立場より、キリスト教をさらに人間主体の産物であると主張した。
1843年の『暴かれたキリスト教』でバウアーは、神への拝跪による思考喪失を批判して、キリスト教からの人間の解放を主張し、発禁処分となった[2][1][3]。同年、社会主義者で無神論者のヴィルヘルム・マルが『暴かれたキリスト教』の縮約版を刊行した[4]。後年マルは反ユダヤ主義を意味する「反セム主義(Antisemitismus)」を造語した[3]。
ローマ教会を批判してドイツ・カトリック運動を起こしたシレジアの司祭ヨハネス・ロンゲ(Johannes Ronge)をドイツ市民は理性を救う者として歓迎したが、バウアーは理性は自由な聖書解釈を行うとしてドイツ・カトリック運動を批判した[1]。
またバウアーはプロテスタントの自由ゲマインデ運動についても、領邦教会制度を批判せずに「愛と真理」といった空言を繰り返すだけで、ドイツ・カトリック運動と同じく聖書の自由研究を許していないと批判した[1]。
『暴かれたキリスト教』を発表した同年1843年の『ユダヤ人問題』でバウアーは、ユダヤ人への圧迫の原因はユダヤ教の偏狭な民族精神にあり、律法の命じる愚かしい儀礼がユダヤ人を歴史の運動の外におき、他の諸民族から切り離したとして、ユダヤ教徒が「空想上の民族性」にしがみつこうとする限り、ユダヤ教徒の解放はありえないし、それはキリスト教が自分の特権を保持しようとする限り解放されないのと同じだと批判した[2][6]。
またユダヤ人は市民社会の隙間に巣くい、不安定要素から暴利をむさぼり、普遍的人権を受け入れないし、ユダヤ人は金融でも政治でも一大権力をほしいままにしているとした[2][3]。バウアーはすべての人間が宗教から解放されなけれならないのに、ユダヤ人だけを解放の対象とみなすことに反意を表明して、ユダヤ人解放論へ反論した[3]。バルニコルは、バウアーの『ユダヤ人問題』は19世紀の最も知的で鋭い反ユダヤ主義の著作であると評している[2]。
また1843年から1844年にかけてバウアーは傍観者である「大衆」に対して、怠惰で自己満足であり「精神の敵」であると批判した[1]。
バウアーはモーゼス・ヘスたちの社会主義についても「凡庸な宗教」として、社会主義者はすでにある労働者組織に追随しているだけだと批判した[1]。
シュティルナーはヘーゲルのいう絶対精神を自我の所有するものと捉え、唯一者としての自我の哲学を展開した。それに対してバウアーは、ヘーゲルのいう絶対精神は「普遍的自己意識」であるとして、その獲得を主張したが、キリスト教がその障害になると捉え、国家と宗教の分離(政教分離)を主張した。
時代は反体制運動が声高に叫ばれ、1848年にドイツ三月革命が起きたとき、バウアーは、この普遍的自己意識の実体化にこだわり、中途半端な普遍的自己意識のままで反体制運動に参加している人間を「大衆」と呼び、これを痛烈に批判した。
革命の翌年の1849年に発表した『ドイツ市民革命論』でバウアーは、ドイツ3月革命について市民階級が国王と妥協して労働者を締め出したし、フランクフルト国民議会も旧体制の連邦議会を再生したものにすぎないと批判し、「ドイツ市民」を思考喪失者として批判した[1]。
また、1848年ドイツ革命ではフランクフルト国民議会副議長リーサ−、治安委員会議長フェッシュホーフ、ジーモン議員、ヤコービ議員などユダヤ人政治家が活躍した[2][7]。バウアーによれば、フェッシュホーフは皇帝位に代わって立ち、キリスト教を冗談とみなし、ウィーンをタルムードの占領権によって所有し、ジーモンを革命代表者とする顕彰運動のドイツ民族は代表者を生み出せず、歴史の目印をドイツ人はユダヤ人に借りなければならないという主張は厚かましいと批判した[2]。バウアーは「革命は新しいものはなにも生み出さない。少なくとも、その怒りの爆発の瞬間には。それは、古い血の沸騰、歴史の下層の堆積物の露出、新しい時代のなかへの古代の闖入にすぎない」と革命思想を批判し、ユダヤ人が革命に期待しているのは自分の古代、自分自身だけであるとした[2]。これ以降、反ユダヤ主義思想を鮮明にしていった。
バウアーはユダヤ的なあり方(Judentum)は単に宗教的教会だけでなく、人種的性質でもあるとし、ユダヤ人は扁平足で下半身はニグロ同様弱いのでしっかり立てず、分厚い皮膚と炎症性の血液からユダヤ人は「白いニグロ」といえるが、黒人の頑強さにも欠けており、「われわれは、ドイツの労苦とドイツの血でもって築かれているドイツ国家のなかのドイツ人にすぎない。そして、われわれはドイツ国家の名前を、世界の最も不良化した者たちの更生施設として貸すつもりは絶対にない」と主張した[2]。バウアーによれば、ユダヤ的なあり方(Judentum)とは「現代の世界威力」「キリスト教世界の均一化」「一党派の手中にある議会の決定」を指し、キリスト教徒の政治家がその代表とされた[2]。
このころには、ヘーゲル左派は事実上消滅し、バウアーは政治的・歴史的著作活動を活発にする。ヘルマン・ヴァーグナーの「国家・社会辞典」の編纂に協力、「ロシアとゲルマン」(1853年)、「ロシアとイギリス」(1854年)などを執筆。
1853年の『ロシアとゲルマン』でバウアーは、1848年革命以後、フランスは立憲主義から帝政主義へ変化し、帝政ロシアと対立し、ドイツは統一に失敗して分立しており、ヨーロッパは分裂と対立の時代となったとし、また、イギリスのユダヤ人首相ディズレーリ、フランスのユダヤ人銀行家フルドなどヨーロッパはユダヤ人に支配されており、ヨーロッパ諸民族の精神的宇宙は奈落に沈没したと論じた[2]。
1863年、バウアーは『異郷のユダヤ』で、ユダヤ人によるドイツの支配は「人道主義的に軟化した瞬間に我々がユダヤ教徒を同等なものとして取り扱った」ことにあり、キリスト教徒にその責任があるとした[8][2][9]。「我々がユダヤ人に対して自らを防衛しなければならないことの責任は、我々のみに、とりわけ我々ドイツ人にある。ユダヤ人が一時的に手に入れた勝利は、彼らが闘い取ったものではなく、我々が彼らにプレゼントしたものなのだ。彼らではなく、我々こそが現代にそのユダヤ的性格を刻印したのだ」と述べ、しかし「我々の責任であるがゆえに、我々はまだ負けてはいない」と述べた[8][2]。
『キリストと皇帝たち』(1877年)では、キリスト教はローマ帝政期のストア哲学の精神からユダヤ教を骨格として誕生したものとし、現代を紀元後1-2世紀のローマ帝政期にユダヤ人の寵臣がアウグストゥス、ティベリウス、カリグラ皇帝を取り巻き、ユダヤ教が勝利を誇っていた時代と重ね合わせた[2]。
晩年には、「ビスマルク時代に関する手引き」などを著し、ヨーロッパ世界の崩壊という認識を示した。『ディズレーリのロマン主義的帝国主義とビスマルクの社会主義的帝国主義』などでビスマルクやディズレーリを論じ、反ユダヤ雑誌の創刊にも関わった[2][10]。
バウアーは、初期マルクスの思想的先行者であると同時に、ヘーゲル左派ではもっとも近い立場にあり、後に孤独死したシュティルナーの遺骸を引き取り埋葬しており、また、世間から無視された孤独な頃のニーチェへの数少ない注目者でもあった。つまり、マルクス、シュティルナー、ニーチェという近代ドイツの思想の交差の深源の消息を示している。
没後出版:
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