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第2代エクセター侯爵ブラウンロー・セシル(英語: Brownlow Cecil, 2nd Marquess of Exeter KG PC、1795年7月2日 – 1867年1月16日)は、イギリスの貴族、政治家。1795年から1804年までバーリー卿の儀礼称号を使用した[1]。廷臣で保守党に属し、第1次ダービー=ディズレーリ内閣で宮内長官(1852年)を、第2次ダービー=ディズレーリ内閣で王室家政長官(1858年 – 1859年)を務めた[1]。
初代エクセター侯爵ヘンリー・セシルと2人目の妻サラ(1773年6月28日洗礼 – 1797年1月18日、トマス・ホギンズの娘)の次男(長男ヘンリーは1793年に生まれ、同年に夭折)として、1795年7月2日に生まれ、同日にバーリー・ハウスで洗礼を受けた[1]。1804年5月1日に父が死去すると、エクセター侯爵位を継承した[1]。1807年ごろから1810年までイートン・カレッジで教育を受けた後[1]、1811年9月3日にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学、1814年にM.A.の学位を修得した[2]。
1821年のジョージ4世戴冠式に出席した[1]。1826年10月7日にラトランド統監に任命され、1867年に死去するまで務めた[3]。1827年5月10日、ガーター勲章を授与された[1][4]。
1835年7月6日にケンブリッジ大学よりLL.D.の名誉学位を授与された[1]。
1841年9月14日に枢密顧問官と王配アルバートの宮内官に任命され[5]、1846年に宮内官を退任した[1]。
1842年1月22日にノーサンプトンシャー統監に任命され、1867年に死去するまで務めた[3]。
1844年にヴィクトリア女王と王配アルバートがバーリー・ハウスを訪れ、エクセター侯爵は2人の接待に巨額を費やした[1]。ほかにも競馬により出費が重ね、多くの債務を残した[1]。
第1次ダービー=ディズレーリ内閣では1852年2月から12月まで宮内長官を務め[6][7]、第2次ダービー=ディズレーリ内閣では1858年2月から1859年6月まで王室家政長官を務めた[8][9]。
1867年1月16日にバーリー・ハウスで死去、24日にスタンフォードのセント・マーティン教会に埋葬された[1]。長男ウィリアム・アレインが爵位を継承した[1]。
1824年5月12日、イザベラ・ポインツ(1803年2月6日 – 1879年3月6日、ウィリアム・スティーブン・ポインツの娘)と結婚[1]、6男4女をもうけた[10]。ウォルター・スコットによれば、イザベラは活発で素直、かつ礼儀正しい美人だったという[1]。
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