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イタリアのサッカー選手 ウィキペディアから
フランチェスコ・モリエーロ(Francesco Moriero, 1969年3月31日 - )は、イタリア・プッリャ州レッチェ出身の元同国代表サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはMF。
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Francesco Moriero | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1969年3月31日(55歳) | |||||
出身地 | レッチェ | |||||
身長 | 173cm | |||||
体重 | 69kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
レッチェ | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985-1992 | レッチェ | 156 | (13) | |||
1992-1994 | カリアリ | 54 | (4) | |||
1994-1997 | ローマ | 76 | (8) | |||
1997-2000 | インテル | 56 | (6) | |||
2000-2002 | ナポリ | 24 | (1) | |||
1985-2002 | 通算 | 366 | (32) | |||
代表歴 | ||||||
1990 | イタリア U-21 | 1 | (0) | |||
1998-2000 | イタリア | 8 | (2) | |||
監督歴 | ||||||
2006-2007 | アフリカ・スポール | |||||
2007-2008 | ランチャーノ | |||||
2008-2009 | クロトーネ | |||||
2009-2010 | フロジノーネ | |||||
2010-2011 | グロッセート | |||||
2011-2012 | ルガーノ | |||||
2012 | グロッセート | |||||
2013 | グロッセート | |||||
2013 | レッチェ | |||||
2014 | カタンザーロ | |||||
2016 | カターニア | |||||
2017 | サンベネデッテーゼ | |||||
2018 | サンベネデッテーゼ | |||||
2019 | カヴェーゼ | |||||
2020-2021 | ディナモ・ティラナ | |||||
2021-2023 | モルディブ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
USレッチェでキャリアを始め、1992-93シーズンからの2シーズンをカリアリ・カルチョで過ごした。1994-95シーズン開幕前、SSラツィオの監督に就任したズデネク・ゼーマンが獲得を希望し、ラツィオが交渉を始めていたが、カリアリ時代に指導を受けた、カルロ・マッツォーネ がASローマの監督に就任したことから、ローマへの移籍を選択した[1]。3シーズン在籍し、88試合で11得点を挙げ、ドリブルでのサイド突破でファンを沸かせるなど、人気を集めた[1]。一方でチームは、5位が2回、12位が1度と、大きな成果は残せなかった[1]。1996-97シーズン以降の契約は更新されず、ローマを離れることになった[1]。
1997年の夏、イングランドのダービー・カウンティと契約を結ぶため、イングランドに行くところであったが、ACミランのガリアーニから連絡を受け、1度はミランと契約した[1]。しかし、アンドレ・クルスのミラン移籍に絡んで、インテルナツィオナーレ・ミラノのルイジ・シモーニ監督の希望で、とインテルと契約することとなった[1]。当時インテルではハビエル・サネッティが同じ中盤の右サイドを務めていたため、余り出場出来ない可能性もあったが、プレシーズンの試合において、クロスから多くの得点をアシストするなど、活躍したことにより、サネッティが左サイドでプレーすることとなり、ポジションを得た[1]。この1997-98シーズン、公式戦44試合で6得点、好調なプレーを見せ、イタリア代表デビューを果たした[1]。しかし、リーグはユヴェントスに競り負け2位に終わるが、UEFAカップを制した[1]。1998-99シーズン、数度の監督交代と、怪我に悩まされ、公式戦18試合1得点に終わった[1]。2000-01シーズン、マルチェロ・リッピ監督が就任、シーズン後半戦は殆ど起用されずに終わった[1]。
2000年からの2シーズンをSSCナポリで過ごした後、現役引退を表明した。
イタリア代表としては1998年1月のスロバキアとの試合で代表デビューし、この試合で2アシストを記録した[1]。4月のパラグアイとの親善試合において、代表初得点と2点目のゴールを決めた[1][2]。同年。1998年ワールドカップでは、グループリーグ第1戦はアンジェロ・ディ・リービオが起用されたが、第2戦のカメルーン戦で先発起用され、クリスチャン・ヴィエリの得点をアシストした。以降、ディ・リービオから先発の座を奪い、合計4試合に出場した[1]。1999年10月9日、ユーロ予選のベラルーシ戦が代表最後の試合となった[1]。
2002年に現役を引退。引退後は監督として、アフリカ・スポール、SSランチャーノ、FCクロトーネを渡り歩く。2009年夏にフロジノーネ・カルチョの監督に就任。
2014年7月2日、レガ・プロに所属するUSカタンザーロの指揮官の座に就いたが[3]、同年11月9日に解任が発表された[4]。2016年3月1日、レガ・プロで下位に苦しむカルチョ・カターニアの監督に就任したが[5]、シーズン終了をもってクラブを離れた[6]。
2017-18シーズンよりセリエCのSSサンベネデッテーゼ・カルチョを指揮したが、2017年11月8日に辞任することが発表された[7]。2018年6月30日に監督に復帰した。
2019年6月、カヴェーゼ1919の監督に就任した。
2020年12月30日、KSディナモ・ティラナの監督に就任した。
2021年10月21日、モルディブ代表の監督に就任した。
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