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ブラジルのサッカー選手 ウィキペディアから
マトゥザレム (Matuzalém) ことフランセリーノ・マトゥザレム・ダ・シウヴァ(Francelino Matuzalém da Silva, 1980年6月10日 - )は、ブラジル・リオグランデ・ド・ノルテ州ナタウ出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
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名前 | ||||||
本名 |
フランセリーノ・マトゥザレム・ダ・シウヴァ Francelino Matuzalém da Silva | |||||
ラテン文字 | MATUZALÉM | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
ブラジル イタリア | |||||
生年月日 | 1980年6月10日(44歳) | |||||
出身地 | ナタウ | |||||
身長 | 175cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF (DMF) | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
ヴィトーリア | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1997-1999 | ヴィトーリア | 14 | (0) | |||
1999 | ベッリンツォーナ | 0 | (0) | |||
1999-2001 | ナポリ | 52 | (2) | |||
2001-2002 | ピアチェンツァ | 28 | (3) | |||
2002-2003 | パルマ | 0 | (0) | |||
2002-2003 | → ブレシア (loan) | 30 | (0) | |||
2003-2004 | ブレシア | 30 | (3) | |||
2004-2007 | シャフタール | 68 | (25) | |||
2007-2009 | サラゴサ | 14 | (1) | |||
2008-2009 | → ラツィオ (loan) | 14 | (0) | |||
2009-2013 | ラツィオ | 61 | (2) | |||
2013-2014 | ジェノア | 36 | (1) | |||
2014-2015 | ボローニャ | 36 | (0) | |||
2015-2016 | ヴェローナ | 7 | (0) | |||
2016 | マイアミFC | 3 | (0) | |||
2016-2018 | モンテロージ | 28 | (3) | |||
1997-2018 | 通算 | 421 | (40) | |||
代表歴2 | ||||||
1997 | ブラジル U-17 | 6 | (3) | |||
1999 | ブラジル U-20 | 4 | (1) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2019年1月5日現在。 2. 2014年6月29日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
1999年夏にECヴィトーリアを離れ、パルマFCとの共同保有でSSCナポリへ移籍[1] 。加入初年度にクラブのセリエA昇格を経験する。同クラブには2シーズン所属し、リーグ戦52試合に出場した。
2001年夏にパルマが保有権を買い取り、すぐにアマウリらと共にピアチェンツァ・カルチョへ共同保有で加入[2]。ナポリ時代に続きワルテル・ノヴェッリーノの指揮を受け、8月26日のSSラツィオ戦 (1-1) ではクラブ史上において外国人選手初となるゴールを挙げた。
シーズン終了後にパルマが再び保有権を買い戻すと、ブレシア・カルチョへレンタルとなった[3]。カルロ・マッツォーネ監督の下リーグ戦30試合に出場すると、翌年よりブレシアに完全移籍した。同クラブではロベルト・バッジョ、ルイジ・ディ・ビアジョ、ルカ・トーニらと共にプレー。バッジョの現役最後の試合となった2004年5月16日のACミラン戦では2得点を挙げた。
2004年夏、移籍金1400万ユーロでウクライナ・プレミアリーグのFCシャフタール・ドネツクへ移籍[4]。ミルチェア・ルチェスクに率いられた在籍中の3年間で、2度のリーグ優勝を経験する。
2006-07シーズンは、退団したアナトリー・ティモシュチュクの後を継ぎキャプテンとしてチームを牽引した。2007年3月15日に行われたUEFAカップ2回戦・セビージャFCとの第2戦ではオーバーヘッドによる先制点を挙げたが、チームは延長の末逆転を許し敗退した[5]。シーズン終了後、クラブの年間最優秀選手に選出された。
USチッタ・ディ・パレルモやトリノFC、SSCナポリなどからオファーが届いたが[6]、2007年7月18日にプリメーラ・ディビシオンのレアル・サラゴサと3年契約を締結した[7]。9月26日のFCバルセロナ戦でトゥーレ・ヤヤのタックルを受け、左膝内側側副靭帯の断裂及び後脛骨の挫傷により全治2か月と診断された[8]。2008年3月に復帰しレギュラーとして14試合に出場したが、クラブは2部に降格した。
サラゴサの降格に伴い、2008年7月17日にSSラツィオへ買い取りオプション付きでシーズンローンとなった[9]。シーズンを通して負傷に悩まされながらも、クリスティアン・レデスマと中盤を形成した。
2009年5月19日、サラゴサへの移籍の際にシャフタールとの契約を一方的に破棄したとして、本人及びサラゴサに対してシャフタールへ1200万ユーロの移籍金を支払うようスポーツ仲裁裁判所から裁定を受けた[10]。
UCサンプドリアとのコッパ・イタリア決勝戦は累積警告による出場停止のため欠場したが、クラブは優勝を収めた。8月8日に開催されたスーペルコッパ・イタリアーナのインテルナツィオナーレ・ミラノ戦では、61分に先制点を挙げ2-1で勝利。クラブのシーズン2冠に貢献した[11]。
シーズン終了後にラツィオはオプションを行使する意向を示したが、フアン・パブロ・カリーソの獲得を希望するサラゴサとの交渉が難航。最終的に両者をトレードする形でラツィオへ完全移籍となった[12]。
2010年3月14日のASバーリ戦で左足腓骨を骨折し、残りのシーズンを棒に振る[13]。翌シーズンはレデスマやクリスティアン・ブロッキの控えとなった。2011年3月19日のACチェゼーナ戦において、相手MFルイス・ヒメネスを暴行し4試合の出場停止処分を受けた[14]。
2012年3月29日、先の移籍金支払いが遅滞した場合の出場停止を可能としたCASの裁定がスイス連邦最高裁判所によって棄却された[15]。
2011-12シーズンを終えるとブラジルへ帰国したが、クラブと音信不通になるというトラブルを起こす[16]。
2013年1月、レンタルでジェノアCFCへ加入[17]。シーズン終了後にはラツィオを退団しフリートランスファーでジェノアと契約した[18]。翌年7月1日にクラブとの契約を解除することで合意した[19]。
同月4日、セリエBのボローニャFCに加入[20]。レギュラーとしてプレーしクラブのセリエA昇格に貢献した。
ボローニャ退団後の2015年9月18日、エラス・ヴェローナFCと1年契約を結んだ[21]。
2016年1月20日、北米サッカーリーグへ新たに参入するマイアミFCと契約した[22]。
同年5月にアメリカを去ると、12月5日にセリエDのモンテロージFCへ加入することが発表された[23]。2018年1月7日に行われたカルチョ・フラミニア・チヴィタ・カステッラーナとのリーグ戦で審判を殴打し、3か月間の出場停止処分が科された[24]。
1997年9月のFIFA U-17世界選手権にブラジル代表として出場し、6試合で3得点を記録。ガーナとの決勝でもゴールを決め、ブラジルが優勝する原動力となった。世代別の代表としては、1999年のFIFAワールドユース選手権にも出場している。
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