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フェルディナント・フォン・ウランゲル(ヴランゲル;ドイツ語:Baron Ferdinand von Wrangel;フェルジナント・ペトローヴィチ・ヴラーンゲリ;ロシア語:Фердина́нд Петро́вич Вра́нгельフィルヂナーント・ピトローヴィチュ・ヴラーンギェリ;ラテン文字表記の例:Ferdinand Petrovich Vrangel、1796年12月29日(ユリウス暦1797年1月9日) - 1870年5月25日(6月6日))は、ロシア帝国の男爵、ロシア海軍提督、探検家、ロシア科学アカデミー会員。1845年にロシア地理学会を創設したメンバーの一人である。
1796年、プスコフでバルト・ドイツ人の貴族であるウランゲル家に生まれた。彼は1815年に海軍兵学校を卒業し、1817年から1819年にかけてヴァシーリー・ゴロヴニーンのカムチャツカ号による世界一周航海に参加した。
帰国後ウランゲルはロシアの極北(現在のサハ共和国、マガダン州、チュクチ自治管区周辺)を探検する旅に出る。彼はコリマ川を北へと下り、その河口部からロシア極東最北端のシェラグスキ岬へと回り、ユーラシア最東端の北側は当時考えられていたような陸地ではなく海(北極海)であることを確認した。またピョートル・マチューシュキンとP.クズミンらとともに、インジギルカ川からチュクチ半島最東端のチュクチ海に面したコリュチンスカヤ湾までの海岸線の測量も行い、北極海航路(北東航路)の可能性を探った。彼の探検は雪氷学、地磁気学、気候学の発展に貢献したほか、極北地域にある天然資源や先住民の人口・文化の詳細な記録にもなった。
彼は鳥の群れが北の海へと飛んでゆくのを見、また先住民からの聞き取りにより、北極海には未知の陸地があるに違いないと考えた。1820年からの4年間の探検では陸地の発見に失敗したが、後に発見されたウランゲリ島には彼の名がつけられた。
ウランゲルは1825年から1827年にかけてクロートキイ号(Krotky)による世界一周航海を指揮した。また北アメリカ大陸(アラスカ)にあった植民地の行政官(総督)を1829年から1835年まで務め、1840年から1849年まではアラスカの毛皮取引を一手に担う露米会社の社長となった。1855年から1857年には海軍大臣も務めた。
1864年に引退した後は、1840年に入手したエストニア東部の荘園で暮し、1870年に死去した。1867年のアメリカ合衆国に対するアラスカ売却には強く反対した。
彼は1855年にロシア科学アカデミー会員となった。代表的な著書には1841年刊行の『シベリア北岸と北極海への旅行』や、アメリカ大陸北西部の民族について書いた書籍などがある。また、シベリアからアラスカにかけて多くの地名に彼の名がつけられている。北極海に浮かぶウランゲリ島のほか、アラスカ南東岸のアレキサンダー諸島にあるランゲル島(Wrangell Island)とその主要都市ランゲル(Wrangell)、アレクサンダー諸島のランゲル海峡(Wrangell Narrows)、アッツ島の西の先端でアラスカおよびアメリカ合衆国の西端でもあるランゲル岬(Cape Wrangell)、ランゲル山地や同山地唯一の活火山のランゲル山(Mount Wrangell)、ランゲル・セントイライアス国立公園などはウランゲルの名に由来する。
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