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ピエール・ベール(Pierre Bayle, 1647年11月18日 - 1706年12月28日)は、フランスの哲学者、辞書学者、思想家。『歴史批評辞典』などを著して神学的な歴史観を懐疑的に分析し、啓蒙思想の先駆けとなった。
南フランス、ピレネー山麓の寒村、ル・カルラで、プロテスタント(カルヴァン派)の牧師の息子として生まれる。ピュイローランとトゥールーズの学院で学ぶ[1]。1669年に一度カトリックに改宗するが、翌年カルヴァン派に復帰[2]。そのため迫害に遭い[3]、スイスのジュネーヴに逃れる。同地のジュネーブ大学で学び[4]、デカルト哲学に触れる[2]。以後フランスに戻り、1675年からスダンの新教大学の哲学教授となる。しかしプロテスタントへの宗教迫害により1681年に大学が強制閉鎖され、オランダのロッテルダムに移住する。以後、同地の高等教育機関で哲学と宗教を教える[5]。
1682年に『彗星に関する手紙』、翌年に増補改訂版として『彗星雑考』を匿名で刊行。彗星の出現に関する迷信を批判して道徳の宗教からの自立性を説き、スピノザらの存在を強く主張。1684年春から1687年冬にかけ、月刊誌『文芸共和国便り』を刊行。全西欧的な名声を得る。1685年のフォンテーヌブローの勅令(ナントの勅令廃止)直後に『〈強いて入らしめよ〉というイエス・キリストの御言葉に関する哲学的注解』を刊行。新教徒迫害に対して良心の自由と宗教的寛容を訴える。これは王権に寛容を請願しようとするものだったが、年来の同僚であったピエール・ジュリューら王権打倒を唱える強硬派の方針と対立。論争の末、1693年にロッテルダムの教職を追われる[5]。
以後はかねてから計画を温めていた執筆活動に専念。1696年に『歴史批評辞典』を刊行。驚異的な博識と卓抜な批判精神をもとに、従来の歴史辞典の誤記や不正確を正し、なおかつ既存の硬化した哲学体系、宗教体系に対する痛烈な批判と皮肉を込めた作品であった[5][1]。
晩年は「神と悪の存在」を追求し、善悪二元論や人間理性の脆さを確認し、信仰至上主義へ至る。晩年の著作『ある田舎者の質問に対する回答』、『彗星雑考続編』、未完の遺作『マクシムとテミストの対話』では、これと対立するフランス語教会内の理神論的神学者との論争が多くを占める[5]。
代表作『歴史批評辞典』は、従来の歴史記述への厳密な批判的吟味や大胆な哲学的神学的が一体となった大作である[4]。初版の刊行以降も多くの版を重ねて[1]18世紀に広く読まれ、のちの啓蒙思想に多大な影響を与えた。
ジョン・ロックと並ぶ寛容思想の先駆者とされる[1]が、ロックは良心の選択を個人に内在する不可侵の権利と考えたのに対し、ベールは良心への服従を神の権利、人間の義務であると捉えており、その内容は異なる[5]。
ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは「ピェール・ベール―哲学史および人類史への一寄与 ―1838年―」を著し、ベールの信仰と理性の間の矛盾について考察している。同書の中で、カルヴァンやルターが神学者としての自らの意思に背いて教義への懐疑を持ったのに対し、ベールはそれとは異なり、彼はいかなる神学的関心や神学的精神を持たず、自らの意志で懐疑を行ったと指摘している[6]。またライプニッツら同時代の哲学者が一方では哲学に、一方では信仰に同時に目配せするような哲学と信仰の調和・妥協を図ったのに対し、ベールは「神学は哲学を傷つける」として両者の妥協を退けているとする[7]。同書を訳した船山信一によると、フォイエルバッハが近世の哲学者のうちで最も高く評価し、なおかつ心情的に最も近いのがベールである[8]。
ベールの位置付けとしては、18世紀以来伝統的に神学・形而上学の解体を目指した反教義的な批判的懐疑論者とされてきたが、ベール研究が進んだ1960年代以降はカルヴァン派に立脚した特異なプロテスタント思想家とする見方が研究者間では有力になっている[4][5]。
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