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バルトゥ(モンゴル語: Балт, Baltu、中国語: 班禿、? - 1258年)は、モンゴル帝国第4代皇帝モンケ・カアンの長男。『元史』などの漢文史料では班禿、八里土、辨都、『集史』などのペルシア語史料ではبالتو (Bāltū) と記される。
バルトゥはモンケの正室であるイキレス氏のブトゥ・キュレゲンの娘のクトクタイ・ハトゥンより生まれた[1]。
1254年にモンケ・カアンに謁見したウィリアム・ルブルックはバルトゥの家も訪れており、バルトゥが既に夫人を2人持っていること、モンケの宮廷の右側に居住していることなどを記している。また、バルトゥはネストリウス派キリスト教のダヴィドに教えを受けていたため、ルブルックと彼の持つ十字架を見ると平伏し敬意を示したという[2]。
南宋攻略の司令官に起用した弟のクビライの方針に不満を抱いたモンケは1256年、クビライを一旦更迭し、自ら軍を率いて南宋に侵攻することを決定した。遠征軍を率いたモンケは1257年の冬、ゴビ沙漠を越えて玉龍棧に至り、そこで叔父のクビライ、アリクブケと、弟のウルン・タシュ、シリギらとともにバルトゥがカアンを迎え宴会を催した[3]。
ここで集まった諸王はクビライを除き、モンゴリア本土に残るカラコルム留守部隊であり、バルトゥはモンケが親征を行う中でモンゴリアの守備を担当したものと見られる[4]。1258年、バルトゥは母の出身部族であるイキレス部の住地、吉河の南において父のモンケに先立って亡くなった[5]。
『元史』巻107宗室世系表ではバルトゥの子孫について記述がなく、子がいないまま亡くなったかのように記される。一方、『集史』を始めとするペルシア語史料では一致してトレ・テムル(توراتیمورTūrā tīmūr)という息子の存在を伝えている。
ルブルックの旅行記でバルトゥが亡くなる4年前に既に妻がいたことが記録されていることや、『元史』巻95食貨志三において泰定2年(1325年)にバルトゥ家に銀八錠が下賜されている[6]ことなどから、トレ・テムルの下で元代中期頃まではバルトゥ家(バルトゥ・ウルス)は存続したものと見られる[7]。
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