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ドイツの都市 ウィキペディアから
ノイルピーン (Neuruppin, ドイツ語発音: [n‿ɔʏʁʊˈpiːn][2]) は、ドイツ連邦共和国ブランデンブルク州の都市。オストプリーグニッツ=ルピーン郡の郡庁所在地である。人口は約31,000人。なおノイルピン、ノイルッピンとも表記される。
紋章 | 地図 (郡の位置) |
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基本情報 | |
連邦州: | ブランデンブルク州 |
郡: | オストプリーグニッツ=ルピーン郡 |
緯度経度: | 北緯52度55分29.62秒 東経12度48分19.14秒 |
標高: | 海抜 44 m |
面積: | 303.32 km2 |
人口: |
31,002人(2021年12月31日現在) [1] |
人口密度: | 102 人/km2 |
郵便番号: | 16816(ブースコウ、ノイルピーン、ニートヴェルダー)、 16818(グネーヴィコウ、ギューレン・グリーニケ、カルヴェ、リヒテンベルク、ノイ・グリーニケ、ラーデンスレーベン、ラインスベルク・グリーニケ、トルノウ、ヴーテノウ)、 16827(アルト・ルピーン、クランゲン、モルヒョウ、ツェルミュッツェル、ツィペルスフェルデ)、 16833(シュテフィーン)、 16835(ヴルコウ) |
市外局番: | 03391(地区によって異なる) |
ナンバープレート: | OPR, KY, NP, WK |
自治体コード: | 12 0 68 320 |
地区数: | 13 地区 |
行政庁舎の住所: | Karl-Liebknecht-Straße 33/34 16816 Neuruppin |
ウェブサイト: | www.neuruppin.de |
首長: | イェンス=ペーター・ゴルデ (Pro Ruppin) |
郡内の位置 | |
この地に誕生した作家テオドール・フォンターネを記念し、1998年5月1日から都市名に「フォンターネシュタット (Fontanestadt, フォンターネ都市)[3]」を添えている。ノイルピーンはブランデンブルク州「歴史的な中心部のある都市」作業部会の加盟都市であり、またフリードリヒ大王が即位前に軍務に就き、建築家カール・フリードリヒ・シンケルが誕生した地でもある。
ノイルピーンはドイツで最大の面積をもつ都市の一つである。ベルリンから北約60kmに位置するオストプリーグニッツ=ルピーン郡に位置する。南部はリーン川が川幅を増した部分、ルピーン湖の湖畔地区から成り立つ。その中には中心部であったノイルピーン地区とアルト=ルピーン地区がある。北部ではルピーナー・シュヴァイツを経てキューリッツ=ルピーン荒地にまで広がっている。なおキューリッツ=ルピーン荒地はドイツ駐留ソ連軍集団の演習場として利用された。都市はルピーナー・ラント内に位置する。
ノイルピーンには1993年の編入合併の結果、下記の地区、居住地区、住宅街が含まれる[4]。
地区 | 居住地区・その他の住宅街 |
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この地の先史時代の集落形成については、中石器時代から初期青銅器時代を経て、当初はゲルマン人、後にスラヴ人集落があり、場所はルピーン湖畔の旧市街地域、「新市場 (Neuer Markt)」や周辺地域であった。スラヴ人時代後期、この地域には Zamcici 族が定住し、アルト・ルピーン南方に浮かぶ島、ポッゲンヴェルダー (Poggenwerder) の城塞に根拠地をおいた。1147年のヴェンド十字軍の後、アルブレヒト熊公らドイツ人領邦君主がこの地を征服すると、1214年からアルト=ルピーンのアムツヴェルダー (Amtswerder) スラヴ人城址付近に、大規模な低地城塞、「プラーネンブルク (Planenburg)」が建設された。城塞の北側前面には市場集落 (Marktsiedlung) ができ、ニコライ教会 (Nikolaikirche) が建てられた。その東に隣接するリーン川対岸にできた「キーツ (Kietz, 地区)」がオルデン・ルピーン (Olden Ruppyn)、すなわちアルト・ルピーンである。
城塞の南西にも13世紀初頭からルピーン (Ruppin) という名をもつ集落が生まれた。これが今日のノイルピーンである。集落にはニコライ教会があり、芝生の共有地には街道市場 (Straßenmarkt) が設けられた。
その後当時のルピーン(現在のノイルピーン)は、リンドウ=ルピーン家が計画的に新規建設した都市となった。
この伯爵家はアルンシュタイン家に連なる家系で、アルト・ルピーンを統治していた。最初の記録は1238年に遡る。当初は市場権による市場集落であったアルト・ルピーンは、1246年にこの地にドミニコ会の修道院が設立された頃には、今日のノイルピーンにまで広がっていたといわれている。修道院にとっては、エルベ川とオーダー川の間で初となる支部であった。初代修道院長はヴィヒマン・フォン・アルンシュタインであった。1256年3月9日にはギュンター・フォン・アルンシュタインによって、シュテンダール法 (Stendaler Stadtrecht) に基づく都市権を与えられた。13世紀には都市の要塞化が、防禦柵、防塁・環濠方式を用い進められ、後に城壁、防塁・環濠方式になった。24か所の城壁組込型の番屋 (Wiekhaus) と2本の高い塔で都市壁は強化された。加えて門が3か所に設けられた。北側にはアルトルピーン門/ラインスベルク門 (Altruppiner/Rheinsberger Tor)、南側にはベルリン門/ベヒリーン門 (Berliner/Bechliner Tor)、東側には湖門 (Seetor) であった。遅くとも15世紀頃には都市を取り巻く城壁が完成した。
ノイルピーンで最古の地域は細長い緑地帯、すなわち南北都市門間を並走する2本の道路に挟まれた部分であり、その南には最古の教会、聖ニコライ教会がある。ノイルピーンの目抜き通りは16世紀中頃から舗装されている。 ノイルピーンを北西から湖に向かって横切るのは、ルピーナー・メッシェ (Ruppiner Mesche) を起点とする堀、クラップグラーベン (Klappgraben) であり、雑用水の供給、また排水に用いられた。1537年には一部が埋められ、1787年の大火後はシンケル通り (Schinkelstraße) に運河として再整備された。
ノイルピーンは中世には北東ドイツの大規模都市の一つになっていた。この時代のものには、例えば都市壁の一部、聖三位一体修道院教会 (Klosterkirche St. Trinitatis, 1246年)の一部、聖ゲオルク礼拝堂 (St. Georgs-Kapelle, 1362年)、診療院 (Siechenhospital, 1490年) と1491年に落成した聖ラツァルス礼拝堂 (St.-Lazarus-Kapelle)、湖畔地区の遺構がある。中世の市街の範囲は、ほぼ正方形の約700メートル四方であったが、東の隅はひしゃげた形状であった。東側と南東側の境界はルピーン湖畔にあった。
平和条約を記念し選帝侯ヨアヒム1世は1512年、ノイルピーンで3日間にわたる馬上槍試合を開催した。これは
当時、国中の話題をさらい、その見事なことといえば、いまだかつてベルリンにもシュプレー河畔のケルンにもなかったほどだった。
リンドウ=ルピーン伯爵家が断絶すると、1524年にノイルピーンは選帝侯ヨアヒム1世の封土となった。三十年戦争ではノイルピーンも大きな被害を受け、1685年以降はフランス人のユグノーが移住してきた。
宗教改革が進むと、修道院の領地は1540年頃には選帝侯の手に渡った。1564年、選帝侯は都市に修道院を寄贈した[6]。この時代に起きたのが、修道院教会内に描かれる伝説である。小柄なハツカネズミが大柄なクマネズミを追い回すというもので、この教会が今後もルター派であり続けることを象徴的に暗示している[7]。
記録に残るノイルピーン最古の学校は1365年のラテン語学校である。当時、非常に重要な教育機関であり、この地域にとどまらず広く知られていた。学校の歴史は1477年以来しっかりと記録が残されている[8]。1777年にフィリップ・ユリウス・リーバーキューンとヨハン・シュトゥーフェが学校運営を引き継ぐと、ヨハン・ベルンハルト・バゼドウの意図するところ改革され、この地域にとどまらず、多くの人々から広く注目された[6]。
1688年、ノイルピーンはブランデンブルクで初の衛戍都市の一つになった。かのフリードリヒ大王も王太子時代にこの地に滞在した。逃亡に失敗し、キュストリーン要塞に幽閉された後、1732年から1740年まで王太子歩兵連隊の主を務めた。なおベルンハルト・フェルトマン が都市の勤務医になったのはこの時代である。彼が残した参事会文書の写しには、歴史的に興味深い文書が含まれ、今日では都市初期の歴史にとって最重要な文献集となっている。原本は1787年の大火で焼失してしまったためである。都市の人口は当時は3,500人であったが、これに対して軍人および部隊所属の民間人は時に1,500人に上った[9]。このような状況はドイツ駐留ソ連軍集団が撤退するまで続くことになる。
1740年からノイルピーンに工房を開いたオルガン製作者ゴットリープ・ショルツェは、なかでもラインスベルクのオルガンで名高い。
都市発展で重要な転機となったのは、1787年8月26日、日曜日の大火であった。火元はベルリン門近くの納屋で、大量の穀物を保管していた。当日午後の出火後、火は瞬く間に燃え広がった。被害を免れたのは、東部・西部の端の2か所のみだった。被害は合計、市民家屋が401棟、別棟・後屋が159棟、家畜小屋が228棟、納屋が38棟、そして聖マリア教区教会 (Pfarrkirche St. Marien)、参事会館、改革派教会、王太子宮殿が失われた[10]。死者は出なかった。被害金額はおよそ60万ターラーと算定された。火災保険から約22万ターラー、教会が集めた特別献金が6万ターラー、プロイセン王国政府は都市再建資金として13万ターラーを用立てた。プロイセンはその後数年間で合計100万ターラー以上を支出した。
1783年から既に都市建築局長 (Stadtbaudirektor) の任にあったベルンハルト・マティアス・ブラッシュ (Bernhard Mattias Brasch) は、再建委員会の裁量範囲を変更し、都市再建を監督した。再建には1788年から1803年までかかったが、総合計画どおりに実施された。ブラッシュの計画では、テンペルガルテン (Tempelgarten, 神殿庭園) と湖の間にある都市壁を取り除き、都市を46ヘクタールから約61ヘクタールに拡大することを企図していた。南北方向の2本の通りは近接していたため、1本の幹線道路(今日のカール=マルクス通り)に集約された。こうして直交する街路網と、三階建てで通り抜け可能な家屋が立ち並ぶことになった。堂々たる広場に至る長大な広幅街路と初期新古典主義様式の家屋は、この時代の街のたたずまいの特徴である。この都市建築の改革原理は今日でもはっきりと見て取ることができる。こうして唯一無比の新古典主義様式の都市構成が誕生し、今日でも初期新古典主義の都市計画芸術の模範例となっている。再建が完了したのは1803年になってからであった。聖マリア教区教会(1801年から1806年にカール・ルートヴィヒ・エンゲルの参加を得て建設)の完成のみ、静力学上の問題から1806年までずれ込んだ。
ヨハン・ベルンハルト・キューン (Johann Bernhard Kühn) が1750年にノイルピーンで始めたのが、ビルダーボーゲン (Bilderbogen, 一枚絵[11]) の生産であった。テーマに沿った一枚刷り印刷物で、色付けは長年、手作業であった。息子のグスタフ・キューン(1794年-1868年)の時代には、一部では発行部数が年間300万部に達した(1870年-1871年の普仏戦争図案)。銘版には「ノイ=ルピーン、グスタフ・キューン謹製 (Neu-Ruppin, zu haben bei Gustav Kühn)」とあり、世界中で有名になった。この他にもフィリップ・エーミクケおよびヘルマン・リームシュナイダー (Philipp Oehmigke und Hermann Riemschneider) とフリードリヒ・ヴィルヘルム・ベルゲマン (Friedrich Wilhelm Bergemann) がビルダーボーゲンを生産していた。これら3社は同業者が当時全ドイツで60社以上もある中、長く不動の地位を保った。
1877年、オルガン製作者のアルベルト・ホレンバッハ がノイルピーンに工房を構えた。彼の手がけたオルガンには、ベヒリーン、ブースコウ、カルヴェ、ニートヴェルダー、シュトルベックの各地区の教会、ノイルピーン旧市街の病院礼拝所 (Siechenhauskapelle) などがある。
1880年の後、ノイルピーンは鉄道支線網の中心地であり、1945年までルピーン鉄道株式会社の運営であった。鉄道網はフェーアベリーン-パウリーネンアウエ(1880年)、クレンメン-ベルリンとヴィットシュトック-マイエンブルク(1899年)、ノイシュタット-ヘルツベルク線 (1905年)が放射状に延びていた。
1893年には、中心市街地の南端に州立ノイルピーン癲狂院 (Landesirrenanstalt Neuruppin) が設立された。
1905年からノイルピーンでは消火器が生産されている。特にミニマックス社の消火器は、取り扱いが容易ですぐに広まった。
第一次世界大戦中、一個飛行中隊がノイルピーンに駐屯し、飛行場が建設された[9]。
1921年、建築家兼住宅地設計専門家ゲオルク・ハイアー(1880年-1944年) がギルデンハル 地区にフライラントジードルング (Freilandsiedlung, 「緑野の住宅地」) を建設した。その目的は芸術家や美術工芸家が共に住まい、共に働くべく集い、日常用品を誰もが手にできる価格の美術工芸品として共に創作、生産するためであった。著名な芸術家や美術工芸家が集まり、1929年まで存続した。
1926年には鉄道築堤に並行し、ルピーン湖を渡る道路が完成した。こうして「ギルデンハル」と「コロニー・ヴーテノウ (Kolonie Wuthenow)」の両住宅地はノイルピーンと直接結ばれた。1929年、両住宅地はノイルピーンに編入された。また前年の1928年には「トレスコウ領地区域」(Gutsbezirk Tresckow) が編入されていた[9]。
ナチ党の権力掌握後の1933年6月、政敵とされた80人以上もの人々、とりわけ社会民主党員、ユダヤ人、共産党員が、ナチ党突撃隊の運営する暫定収容施設に連行された。この建物は操業停止となっていた醸造所で、アルトルピーナー・アレー (Altruppiner Allee) にあった。囚人の多くが突撃隊員から拷問、または虐待を受けた。なお犠牲者を追憶するため、ソ連軍占領時代の1947年に記念碑が、また後の1981年には東ドイツ支配政党、社会主義統一党地区指導部の指令により一連の彫像が作られた。なお彫像が立つのは学校広場 (Schulplatz) で、以前の追悼碑を建て替えたものである。
1934年、軍のノイルピーン飛行場は「ノイルピーン飛行学校 (Fliegerschule Neuruppin)」として復活した。
ユダヤ系市民は約90名がナチス時代に迫害、追放、殺害された。1824年に開設したユダヤ人墓地、旧墓地 (Alter Friedhof) は、それにもかかわらず寛大に扱われた。墓碑は破壊を免れ、ドイツ国防軍の当時の連隊長パウル・フォン・ハーゼの命により、新墓地(プロテスタント墓地)に移された。2003年11月17日にストルパーシュタイン(つまずきの石)が中心市街地とアルト=ルピーンに置かれ、殺害されたユダヤ人市民を追憶している。
ナチス・ドイツのいわゆる安楽死措置、T4作戦に際し、州立ノイルピーン癲狂院はブランデンブルク殺害施設やベルンブルク殺害施設への中継施設となった。そのため患者数は1937年1月1日の1,971名から、1940年4月1日には4,197名に増加した。1941年には定員1,797名に対し、患者は1,147名であった。1943年、患者の大部分は、非空襲地域で病床確保を図るブラント作戦のため他施設に移送された[12]。病院の一部は予備軍病院として使用された。1945年以降、施設の一部は地区病院となった。2004年9月20日にルピーン総合病院 (Ruppiner Kliniken) の敷地に、つまずきの石が6つ設置され、旧州立癲狂院の「安楽死」犠牲者を象徴している[13]。
1945年5月1日にソ連赤軍はノイルピーンに達し、対岸から街に向け砲撃を準備していた。しかし幸い何者かが修道院教会の塔に白旗を掲げ、そして教区教会もこれに倣った。こうして都市は破壊を免れた[14]。
ドイツ駐留ソ連軍集団は中心市街地のすぐ北の軍飛行場を使用し、市内に大きな騒音公害をもたらした。1989年には市民が大規模なデモを行い、飛行場を閉鎖する代わりにヴィットシュトック演習場を存続するという計画に抗議した。
1950年頃まで中心部には「新劇場 (Die neue Bühne)」 という劇場があった。州ドイツ民衆劇場連盟 (Landesverband der Deutschen Volksbühne) が運営し、最高で95名が従事していた[15]。
1951年、ノイルピーンに電気物理製作所 (Elektro-Physikalischen Werkstätten) が設立され、電子部品を生産した。これらは1970年から電気物理工業 (Elektro-Physikalische Werke, EPW) として東ドイツ最大のプリント基板生産工場となり、従業員は3,500名にまで増大した。
1952年、ノイルピーンは東ドイツ政府の郡域改革により、ポツダム県ノイルピーン郡の郡庁所在地になった。
1990年にブランデンブルク州が新設されると、ノイルピーン郡は当面存続することとされた。
郡の再編が1993年12月6日に実施され、ノイルピーン郡は新設のオストプリーグニッツ=ルピーン郡に吸収された。同日ノイルピーンは都市アルト・ルピーン、また自治体であるブースコウ、グネーヴィコウ、ギューレン=グリーニッケ、カルヴェ、クランゲン、リヒテンベルク、モルヒョウ、ニートヴェルダー、ラーデンスレーベン、シュテフィーン、ヴルコウ、ヴーテノウを合併し、大幅に拡大した。
1991年までノイルピーンにはソ連軍第12戦車師団が駐屯していた。兵舎は後に2000年のハノーファー万国博覧会の外部プロジェクトとして住宅に改装された。飛行場の一部はグライダー滑空場として利用されている。
1996年には当時の州立ノイルピーン総合病院 (Landesklinik Neuruppin) と地区病院であるルピーン病院 (Ruppiner Krankenhaus) が共に、オストプリーグニッツ=ルピーン郡によるルピーン総合病院有限会社 (Ruppiner Kliniken GmbH) に移管された。ルピーン総合病院は地域最大の雇用主の一つである[16]。
福音派のルピーン教区とヴィットシュトック/ドッセ教区が1998年に合併すると、ノイルピーン教会地区長は廃止され、ヴィットシュトック/ドッセが担当している。
2001年1月1日に検察は、東ドイツ不法行為対策部および地区刑事部 (Abteilung für DDR-Unrecht und Bezirkskriminalität) を改組し、汚職特別捜査部 (Schwerpunktstaatsanwaltschaft für Korruption) を設置し、ブランデンブルク州全体の汚職事件を担当している[17][18]。
2002年9月7日、第7回「ブランデンブルクの日 (Brandenburgtag)」が約23万の訪問者を集め開催された。ザクセン州を襲った2002年エルベ川洪水に際し、数多くのアーティスト、ウード・リンデンベルクやゲルハルト・シェーネらが被災者のために報酬を寄付した[19]。
2009年5月、ルピーン湖畔の開発区域の地下水が有機ハロゲン化合物で汚染されていたことが初めて公表された。管轄の環境当局であるオストプリーグニッツ=ルピーン郡が認めたことだが、この環境汚染は以前にも別件の建設計画時で検出され、1999年から既知の事実であったという[20]。
ノイルピーン塩化物泉温泉 (Thermalsole Neuruppin) はヨウ素を含み、2011年5月12日に療養泉 (Heilquelle) として国家から認定を受けた。これはブランデンブルク州内で初の認定であった。
塩化物泉温泉は、旧市街近くのフォンターネ・テルメ (Fontane-Therme) で健康促進に、また暖房に利用されている。
1994年、テオドール・フォンターネ生誕175周年を記念し、ノイルピーン・フォンターネ賞 が創設された。
1998年にノイルピーンは、テオドール・フォンターネ没後100周年を記念し「フォンターネ年 (Fontanejahr)」を開催し、州全体で約200件の催事を挙行した。この企画を創設したノイルピーンは、「フォンターネシュタット (Fontanestadt)」を都市名に添えることになった[21]。
2010年から2年ごとに五旬節の期間中、フォンターネ記念祭を開催している。
2004年以来、ノイルピーンは汚職事件や縁故癒着で紙面を賑わせてきた。こういった地方政治の不祥事が重なり、事件の検証が進むと、人々からは「マルク地方のパレルモ (Märkisches Palermo)」、「小パレルモ (Klein Palermo)[22]」、果ては汚職 (= Korruption) と掛けた「コルピーン (Korruppin)」などと揶揄された[23][24]。
オーラフ・カームラート (Olaf Kamrath) 元市議会議員 (CDU) は、2006年にXYギャングの「ヘッド」として特に組織的薬物犯罪の廉で長期の懲役刑判決を受け、確定した[23]。
ラインハルト・ゾンマーフェルト (Reinhard Sommerfeld) 元市議会議員(ノイルピーン市民運動、Neuruppiner Initiative)は、現在まででドイツで唯一、代議士贈収賄罪で有罪が確定した代議士である[25]。
オットー・テール元州議会議員 (Die Linke) は2008年5月15日、市長在任中の不当利得の廉で懲役9か月の執行猶予付き判決を受けた。判決後、州議会議員を辞職した[26]。
2008年9月にはオストプリーグニッツ=ルピーン貯蓄銀行の前最高経営責任者ヨーゼフ・マルクホフ (Josef Marckhoff) を解任した。理由は、自分の60歳の誕生日パーティーに銀行から5万5,000ユーロを支出させたためであった。なおこの日は銀行創設160周年記念日でもあった[23]。
ノイルピーン都市施設局の元理事長ディートマール・レンツ (Dietmar Lenz) は、監査会を通さず50万ユーロ以上をスポーツ団体MSVノイルピーン支援のため支出したとの批判を受け、2009年3月19日に重大な背任行為と不当利得の廉で自由刑2年の執行猶予付き判決を受けたが、同年末に自殺した[27]。ここで市民運動が結成され、有罪判決を受けたオットー・テールとラインハルト・ゾンマーフェルトの支援を受け、イェンス=ペーター・ゴルデ市長の解任を求める活動を始めた。市民運動「このままじゃダメだ!(Kein weiter so!)」はゴルデを指導力不足、選挙公約不履行、都市の雇用を危険にさらしたとして非難した。しかし2010年2月に解任請求は不成立となった。必要票数、5,300票に対し、主催者側発表で5,079票しか得票できなかったためである[24][28]。
2007年9月1日に極右団体がノイルピーンの中心部でデモを計画すると、これに先立ち超党派の行動連合「ノイルピーンはこれからもカラフル (Neuruppin bleibt bunt)」が結成され、対抗企画を組織し約1,000名の参加者があった[29][30]。極右団体が再びデモを計画すると、2009年9月5日に行動連合の企画で、一連の市民的勇気活動がデモの経路に沿って行われた[31]。2010年3月27日に「ノイルピーンはこれからもカラフル」は、極右団体「ノイルピーン自由勢力 (Freie Kräfte Neuruppin)」が350人でデモ行進に出ると、民主祭り「とっておきの民主主義 (Demokratie im Quadrat)」を組織し、2,000名が参加した[32]。2011年6月6日に活動連合の業績に対し、「勇気と理解のためのきずな (Band für Mut und Verständigung)」賞を受賞した。2011年11月、「ノイルピーンはこれからもカラフル」が市の意思に反し抗議する中、極右政党ドイツ国家民主党の党大会がノイルピーンで開催された[33]。
詳細なデータ出典は、Wikimedia Commons[34]。
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2008年9月28日の地方選挙による全32議席の議席配分は以下の通り[37]。
ノイルピーン都市条例第2条第1項並びに第2項[38]に規定がある。
この紋章は2003年3月31日に承認された。
紋章記述:紋章は「青地に銀色の城塞があり、鋸壁のある三階建ての2本の塔にはそれぞれ上下階ごとに黒い門、赤い屋根には金色の頂部がつく。建物中央には小塔が3つと黒い門があり、金色の嘴、爪、舌をもつ銀色の鷲が乗る赤い三角盾が覆う[39]。」
ノイルピーンは以下の都市と姉妹都市協定を結んでいる[40]。
詳細はノイルピーンの建築記念物一覧を参照。
ノイルピーンはブランデンブルク州の中規模中心地に区分されている[47]。経済拠点としてブランデンブルク州に15ある地域成長拠点の一つである。
ノイルピーンは鉄道線、クレメン-マイエンブルク線の沿線にあり、市内にはノイルピーン西駅、ノイルピーン・ラインスベルク門駅、ヴストラウ-ラーデンスレーベン駅がある。RE6号線(プリーグニッツ急行)が1時間に1本、ベルリン=ゲズントブルンネン駅からヘニヒスドルフ(バイ・ベルリン)駅、ノイルピーンを経由し、ヴィッテンベルゲ駅に走っている。現在、自治体主導の物流センター建設プロジェクト、「HUB 53/12°」が進行中である。ギュストロウ、プリッツヴァルク、ノイルピーン、また自治体連合のクローバー連合(グムトウ、キューリッツ、ノイシュタット (ドッセ)、ヴスターハウゼン/ドッセ)が参加している[48][49]。プロジェクト開始に当たり、ノイルピーン-ノイシュタット (ドッセ) 線が2010年12月29日に買収された。
道路では、連邦自動車道路24号線が通り、ノイルピーン出口、ノイルピーン南出口が設けられている。連邦道路167号線 と連邦道路122号線が市街地を通っている。
ノイルピーンとその周辺には、観光にも便利な自転車道路が整備されている。
ノイルピーンはフェーアベリーン飛行場(ルピーナー・ラント飛行場)の運営に参画している。また市街地、中心部北西にはグライダー滑空場がある。
1905年にノイルピーンにミニマックス社が拠点を移し、消火器を生産した。1945年にノイルピーン工場が没収されたため、同社は西ドイツに移転した。しかし消火器の生産自体は継続され、後にノイルピーン消火器具販売有限会社 (FLN Feuerlöschgeräte Neuruppin Vertriebs-GmbH) が設立された。
ニートヴェルダー地区では Jetcar 社が同名の自動車を生産している。
ノイルピーンには、オストプリーグニッツ=ルピーン郡の行政機関が置かれている。またノイルピーン地方裁判所、ノイルピーン区裁判所、ノイルピーン社会裁判所、ノイルピーン労働裁判所がある。
オストプリーグニッツ=ルピーン郡は選択自治体であるため、労働エージェンシーの他に、第2種失業給付金のための労働市場局 (Amt für Arbeitsmarkt) が置かれ、また州西部を管轄する州労働保護局 (Landesamt für Arbeitsschutz) がある。かつての郡防衛補充事務所は義務兵役制中止の結果、ノイルピーン兵役相談所へ改組された。
ノイルピーン州機関合同庁舎 (Landesbehördenzentrum) には様々な行政機関が入居している。ノイルピーン特別建設監督局 (Sonderbauleitung Neuruppin)、州消費者保護・農業・耕地整理局出張所 (Regionalstelle des Landesamtes für Verbraucherschutz, Landwirtschaft und Flurneuordnung)、耕地整理・田園開発局 (Amt für Flurneuordnung und ländliche Entwicklung)、ノイルピーン社会裁判所、州労働保護局、ブランデンブルク州環境局地方西部地域および西部TR2部である。アルト・ルピーン営林局 (Amt für Forstwirtschaft) とクンスターシュプリング林業学校 (Waldarbeitsschule Kunsterspring) がある。
また連邦資産公団の連邦森林部 (Sparte Bundesforst) のルピーン荒地総局 (Hauptstelle Ruppiner Heide)が置かれている。
ノイルピーンには日刊紙『ルピーン新報』と『マルク一般新聞』の地方版がある。ケーブルテレビで地域テレビ局「ruppin TV」が地域ニュースを放送している。
ノイルピーンには以下の教育機関がある[50]。
市内に広い水域があるためウォータースポーツが盛んである。全国のサッカークラブ、MSVノイルピーンはこの地方にとどまらず有名である。
ノイルピーンは名誉市民の称号を「フォンターネシュタット・ノイルピーンが特に高く評価する、抜きんでた功績のある市民[51]」に授与している。
これまでの授与者は以下の通り。
全てナチスがらみである(ヒンデンブルクは死後にヒトラーの支配を許してしまったため)。
ノイルピーンは最高齢者の称号を授与している。
ノイルピーンは2005年からフォンターネシュタット・ノイルピーン顕彰メダル (Ehrenmedaille der Fontanestadt Neuruppin) を「フォンターネシュタット・ノイルピーンと住民への格段の功績を讃えるため[51]」に授与している。
これまでの受賞者は以下である。
ノイルピーンの気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 1.7 (35.1) |
3.5 (38.3) |
8.1 (46.6) |
13.5 (56.3) |
19.1 (66.4) |
22.4 (72.3) |
23.6 (74.5) |
23.4 (74.1) |
19.2 (66.6) |
13.7 (56.7) |
7.1 (44.8) |
3.0 (37.4) |
13.19 (55.76) |
平均最低気温 °C (°F) | −3.4 (25.9) |
−2.7 (27.1) |
0.0 (32) |
3.4 (38.1) |
8.0 (46.4) |
11.5 (52.7) |
13.0 (55.4) |
12.7 (54.9) |
9.8 (49.6) |
6.0 (42.8) |
1.7 (35.1) |
−1.7 (28.9) |
4.86 (40.74) |
降水量 mm (inch) | 44 (1.73) |
38 (1.5) |
38 (1.5) |
44 (1.73) |
56 (2.2) |
69 (2.72) |
52 (2.05) |
60 (2.36) |
46 (1.81) |
36 (1.42) |
47 (1.85) |
55 (2.17) |
585 (23.04) |
平均降水日数 | 10 | 9 | 8 | 9 | 8 | 9 | 10 | 9 | 8 | 8 | 9 | 9 | 106 |
% 湿度 | 88 | 84 | 77 | 71 | 69 | 71 | 71 | 73 | 79 | 84 | 86 | 89 | 78.5 |
平均月間日照時間 | 1.1 | 2.2 | 3.7 | 5.2 | 7.3 | 7.3 | 7.1 | 6.9 | 4.9 | 3.1 | 1.3 | 0.9 | 51 |
出典:wetterkontor.de |
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