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モルドバ公国出身の文人、政治家 ウィキペディアから
ニコラエ・ミレスク(Nicolae Milescu, 1636年 - 1708年)は、モルドバ公国(ルーマニア)の貴族出身の文人、政治家[1][2][3]。ミレスクは本名で、ロシア名はスパファリー(Спафа́рий)という[4]。
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1636年にモルドバのバスルイ近郊のミレシュティで生まれた[1][5]。コンスタンティノープルにある東方正教会の総主教府付属アカデミー(神学校)で学び、モルドバの首都ヤシに帰り、軍の司令官(長官)になった[1][2][3]。1668年にモルドバ公国の君主の地位をねらった陰謀計画が露見し、鼻切りの刑に処された[1][2][3]。亡命してドイツ、フランス、スウェーデンで生活した[3]のち、1671年にモスクワに行き、ロシア外務省使節局の翻訳官(通訳)になった[1][5]。1675年にロシア皇帝の外交使節団団長として北京に派遣され、1678年にモスクワに戻った[1][3]。宮廷で叩頭することを拒絶したため[6]北京派遣の目的はかなわなかった[5]。この派遣によって書かれたミレスクの『トボリスクから中国国境までのシベリア王国旅行記』(1675年執筆、1882年刊)と『中国紀行記または使節団報告書』(1675年から1678年に執筆、1906年刊)は、「当時のシベリア、中国の自然、社会制度、風俗を知る貴重な文献」[1]と評価されている。他にギリシア語訳『旧約聖書』の[7]ルーマニア語への重訳や[2][8]東方教会の神学論などの著作がある[3]。1708年にモスクワで死去した[5]。
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